ジョンレノン追悼集会 at 日比谷野外音楽堂(1980/12/24)

メリー・クリスマス!
皆さんイブはどんな風に過ごしましたか?
うっかり職場で25日の午前零時を迎えてしまった管理人です( p_q)

さてさて、なぜかこの国では「イブは彼女(彼氏)と過ごす」という風習になっていて、
そんなのに翻弄された僕も昔は色々な感情でこの日を過ごしたものです。

彼女がいたイブには日本橋三越にティフニーのオープンハートのネックレスを買いにいったこともあるし、
彼女がいないイブには焦燥感を露にしながら「けっ、てやんでい」と飲めないヤケ酒を食らったこともあります。
結婚してからは、なるべく仕事を切り上げてイブは夫婦や家族で過ごすようにしていました。
でもついにそういう感覚も薄れてきたようで、たまっていた仕事を処理していたら、
うっかり職場で午前零時を迎えてしまった次第です。
人間はこんな風にして段々繊細さのないオヤジになって行くんでしょうね。

あっ、そうそう、たしか映画「スティング」の中のワンシーンだったと思いますが、
イブの夜に独りものの主人公(ロバート・レッドフォード)が、好きな女性を口説いたセリフがあります。
「こんな夜に、君も僕も独りぼっちだ」。
別にロバート・レッドフォードでなくとも使えると思いますので、必要な人は来年はぜひ使ってみて下さい。ぶん殴られるかいい想いができるかのどっちかです。

まあそんな揺れ動くイブや、煩悩だらけのイブやら、解脱したイブを過ごしてきた僕ですが、
ちょうど30年前にはこんなことをやっていました。
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さて、9日の記事で「ジョン・レノンの死を報じたニュース(1980年12月9日)」というタイトルでジョンが亡くなった時のことを書きましたが、同じ1980年12月の24日、日比谷の野外音楽堂で開催された「ジョン・レノン追悼集会」の話もしましょう。

当時の僕は中学校3年生。そして同じ学年にジョンのファンだったM君、A君という友人がいました。
新聞でジョンの追悼集会が日比谷野音で開催されることを知った我々は、この半月の間の鬱々とした気持ちにカタをつけるために、野音に向かったのです。
これで気持ちにケリをつけて、受験勉強に集中しようと思ったのです。
僕は「ジョンの肖像を掲げよう」と思い、「ホワイトアルバム」のアナログ盤に封入されていたA4サイズのジョンの写真を段ボールに貼り付けて持参しました。同じことを考えたヤツは多くて、あちこちに「同じもの」を持った人を見かけました。
その点、絵心のあったM君は違いました。段ボールにジョンの絵を描いて持参したのです。そしていつも飄々としていたW君はこの日も予想通り手ぶらでした。

日中は霧雨が降り、とても寒い一日だったのを覚えています。それでも野音は雨合羽をした人で満員に膨れ上がりました。
主催は「ビートルズ・シネ・クラブ」。「シネ」とは「シネマ」の意味なんだそうですが、何も知らない僕は「なんだかな~」と思いました。

そんな中、開会までの待ち時間に、テレビカメラのクルーが来て女性のインタビューアーが参列者にインタビューをしていました。よく見ればその人は「FNNニュースレポート6:30」の美人キャスターとして名高い田丸美寿々ではありませんか。
たちまち追悼心もどこへやらで、僕たち厨房の心はときめきました。
「おい、田丸美寿々だ!」
「えっ、マジ!どこ?どこ?」
まったく中学生の心は現金なものです。

でもそこはさすがに15歳です。我を取り戻して場の空気にスイッチングし、神妙な心で集会が始まるのを待ちました。

神妙な心持になってみると、やはり悲しいものです。
小学校の高学年の時に、姉の影響で次第にThe Beatlesを聞き始めたこと。驚いたことに初めて聞いたつもりだったのに、多くの曲に既聴感(デジャ・ヴ)があったこと。つまりリアルタイム5年間と解散後の10年間にラジオなどから自然と耳に入っていたのだと思います。
「えっ、この曲もビートルズだったのか」。そういう驚きが僕にとってのビートルズへの入口でした。もっとも中一の頃などはさだまさしのウェイトも高かった時期ですから、まだ自分にとっては色々な音楽を手探りで探している状態でした。そんな中で出来杉君タイプのポールではなく、のび太とスネ夫とジャイアンを足して3で割ったようなジョンに魅力を感じたというのは、僕自身が手探りの中で掴んだひとつの選択だったのでしょう。

さっきから壇上に立って色々とジョンの思い出を語っているエラい方々のお話は右から左でした。
心はうわのそらで、ずっと壇上に掲げられたジョンの写真を見つめていました。

そんな中で記憶しているのは、今ではユニバーサルミュージックの社長さんになってしまいましたが、当時は東芝EMIだった石坂敬一の話っぷりが「とてもクールだな」と思ったこと。星加ルミ子(あるいは湯川れい子だったかもしれません)が「寂しい」を連発していたこと。そして前回の記事でも書いたように香月利一(だったと記憶)が、ジョンの命日と真珠湾攻撃の日が一致していることを「運命の皮肉」と語っていたこと、「僕はジョンのおかげで今の家内と出会いました。今ここに僕の子供を連れてきましたが、ジョンがいなければ、この子はこの世に存在しなかったと断言できます」と言って、4歳ぐらいの子供に壇上から「ありがとうジョン」と言わせたこと。それを中学生心に「子供を使うな!」と思ったことを覚えています。

最後にあの内田裕也が登場しました。

(上の画像のゲストの部分を拡大すると、裕也さんが確認できる)

裕也さんは「俺からジョンに贈れる言葉はたったひとつだ」と言って、
たった一言こう言いました。
「ロックンロール」。
この瞬間、不謹慎ながら「ブッ」と吹き出したのを今でも覚えています。

この後、生前のジョンの写真のスライドショーが上映されました。BGMはもちろんジョンの曲です。
それを参列者がフラッシュで撮影しているのを見て、A君がボソっと言いました。
「光に光をあてて撮影しても、意味ないと思うんだけどなぁ」。
妙に彼の発言に感心しました。

ラストの曲は「Give Peace A Chance」だったのですが、
スライドショーが終わった後も、参列者の合唱が続き、それはなかなか終わりませんでした。
今から考えると「ジョン・レノン追悼集会」の「集会」って、70年代的な空気を引きずっているように思えてなりません。
今だったら「メモリアル・イベント」とか「メモリアル・ディ」とかになるのでしょうけど、「集会」って言ったら、皆で拳を突き上げてシュプレヒコールを斉唱するような、そんな匂いがします。実際、そうだったというのがこの合唱でした。そして僕らも一緒に「Give Peace A Chance」を熱唱したのです。

その後、参列者は日比谷野音を出て銀座の街をキャンドル行進しました。
もちろん我々も参加しました。最初は何だか照れくさいのですが、次第に調子に乗ってきて「Give Peace A Chance」を大声で歌いながら行進したのです。途中の山野楽器などでは店頭にスピーカーを置いて、ジョンの曲を流していたのを覚えています。

そんな中で僕はすっかり「Give Peace A Chance」を歌いながら銀座の街を歩く」という行為に酔いしれていました。
70年代に幼少期を過ごした人間にとっては、それってとてもオトナの仲間入りしていることでした。そして声高らかに平和を叫ぶっていう行為がなんだか「反体制的」なことだと思っていたのです。

でもその行列には前後に「体制側」の警察官がいました。その人たちはこの行列が暴動を起こすのを見張っているのではありませんでした。
我々が車道をはみ出して車に轢かれないように注意しているだけだったのです。
「危ないですから列を崩さないで下さい」とか言ってるのです。
その時、「あっ、僕は体制側に守られて行進しているんだな」って思ったことがいまだに忘れられません。

これがまさに1980年代という時代に突入するときに15歳を迎えた僕らの世代の感覚なんだと思います。うまくはいえませんが.....
「体制」と「反体制」という対立の構図は知っていることは知っている。だけど、現実には「反体制」なんてもう消滅しつつあることに気づいている。そして予定調和的な社会の中で我々は体制側に守られているってこと、そのことを当たり前のように受け容れてしまえる世代だったんですね。

随分歩いたものです。行列は銀座から東京駅前を越えて常盤橋公園でゴール、そして解散となりました。
参列者が三々五々家路へと向かう中で、中3トリオは何だかここで帰ってしまうのがもったいなくて....帰るとそこには受験戦争が待っているような気がして.....お互いに写真を撮りあったりしていました。

そうしたらカッコいいお兄さんがギターを持ち出して「Stand By Me」を歌いだしました。
僕らもそれに合わせて合唱しはじめました。
お兄さんの歌はずっと続きました。
次第に歌う人は減っていったのですが、僕らはずっとそのお兄さんと歌い続けたのです。
最後は10人にも満たなかったと思います。
やがて地下鉄東西線の終電の時間が迫ってきたので、僕たちはお兄さんに「さようなら」を言って帰途についたのでした。

僕はこのギターのお兄さんを、ここ何年もの間、リッキーさんこと廣田龍人さんだと思い込んでいたんですが、近年ご本人に確認したところ否定されてしまいました。

翌年4月、M君は厳しい全寮制で有名な三重県の日生学園に入学しました。ダウンタウンの浜ちゃんが2年上の先輩にいたはずです。
A君も私立高校に進学し、実はお父さんが東芝EMIの関係会社に勤めていたこともあって、彼に頼めばジョンのレコードを安く買うことができました。
僕はM君とは逆で、「自由と自主自立」をモットーとしたゆるい高校に入学し、校則がない中で、のほほんとした高校生活を送っていました。次第に神格化されてゆくのが嫌になってジョンからもビートルズからも心は離れてゆき、The Whoの方がずっと大きな存在となっていったのです。