本当に耳が聞こえていなかったのは誰なんだろう?

かつてCDショップで毎月膨大な楽曲を流れ作業のように聞いてきたおかげで、それなりに耳は鍛えられたとは思っている。ただ困ったのは、そういう経験を通して「芸術至上主義的な耳」ができてしまったことだ。

完成された作品の良し悪しが第一で、送り手の人生や私生活や人間性は関係のないことだと割り切ってしまうようなところが、自分にはある。

極論を言えばシリアルキラーが楽曲をリリースしても、そのクオリティが非常に高いものであれば、その楽曲に対してきちんと称賛するだろう。まあ怖いからライブに行ってサインを求めることはしないけどね。
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(画像は本文と特に関係ありません)

シリアルキラーと比定しちゃあ可哀そうだけど、最近解散したロックバンドに「andymori」というのがいた。リーダーの小山田壮平は脱法ハーブで警察の御厄介(事情聴取)になったかと思えば、解散コンサートの数か月前に橋の上から河川敷に飛び降りて重症、おかげで予定されていたライブはすべておじゃんというとんでもないヤツだったけど、僕はこいつらの音楽を高く評価していたから、「バカだよなぁ~」と呆れながらも彼らの遺書となった「宇宙の果てはこの目の前に」を愛聴している。

(andymori「宇宙の果てはこの目の前に」タイトルトラック)

音楽に限らず、その送り手がどんなに人間性が破綻していようと、どんな破滅的な人生を送っていようと、どんな鬼畜なヤローだとしても極上の作品というものは生まれるもので、そういう局面は何度も見てきている。神様のような気高くて美しい心の持ち主が、必ずしも極上の作品を生み出せるわけではないのと一緒だ。ある程度リンクしている部分もあるけど、絶対にイコールじゃない。そこが音楽の不思議なところだ。
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(画像は本文と特に関係ありません)

ちょっとここでお断りしておくが、今のオシゴトでは絶対にプロを目指す人たちに「人間性なんてどうでもいいから、いい曲作れ」とは口が裂けても言わない。なぜなら上のような「芸術至上主義」は送り手が出すメディアと受け手(僕)とが一対一で対峙する中で成立することだからだ。実際には一人一人のミュージシャンは会社の経営者と一緒なのは当然だ。とりわけ現代は、ある種の経営センスが必須だろう。簡単な約束すら守れないヤツは売れる前に倒産しちゃうだろう。
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(画像は本文と特に関係ありませんが、最近ハマっている2枚。
戦前のエロ歌謡を集めたコンピ「ねえ興奮しちゃいやよ」と、戦前ニッポンのスィングジャズの好コンピ「スウィング・パラダイス」)

さて昨日、作曲家である佐村河内守氏の作品の大半が新垣隆氏の作品であることが発覚した。「耳がほとんど聞こえない人」が作曲家という彼のプロフィールや音楽活動がNスペで取り上げられて以来、音楽界のセンセーショナルな話題となって、CDセールスにも大いに貢献した。

NHKスペシャルは毎回予約録画する方なので、リアルタイムじゃないけど僕自身もこの番組を見ている。確かに凄い人だなぁとは思った。思ったけど作品そのものは現代音楽というにはずいぶん古典的だなぁぐらいの所でとどまったし、製作者の「モノ言いたげな何か」を感じた。だから別に彼の作品を求めにCDショップに走るというところまでは行かなかった。ちなみにこの直後に銀座の山野で芥川也寸志の「交響管弦楽のための音楽」を買っているから、現代音楽つながりでモードスイッチを入れられたところはあったのだろう。

(芥川也寸志「交響管弦楽のための音楽」)

僕はこう思う。
「佐村河内守作曲」作品に感動したり、心動かされた人はそのまま聞き続ければいいし、それが演技しやすい曲であるならば、フィギュアスケートのショートプログラムで使えばいい。
自分が気に入った音楽そのものを愛すること。それはとても大切なことだと思う。

では、本当に耳が聞こえていなかったのは誰なんだろう?

嘘をついた本人も悪いけど、そこに話題性を見出してこの人をセンセーショナルに祭り上げた音楽評論家や業界関係者たちに大きな責任があると思っている。彼らはどんな作品であろうと、まずは色眼鏡なしに音楽そのものを聞く必要があるのに、音楽を聞こうとはせずに、この人の作り上げた「苦悩に満ちた人生」だけを聞こうとしていたからだ。

例えばこういう論評があるとする。
「ザ・ビートルズの"イエスタディ"は音楽史上に残る傑作である。あの曲には14歳の頃に母親を失ったポールの悲しみが美しい旋律になって浮かび上がっている」

これは音楽への評価じゃなくて、単なる知識からの帰納だ。
こういう言い回しをする音楽評論家の言動には眉に唾つけて聞いておいた方がいいだろう。

個人的な見解でホント申し訳ない。だけど僕は音楽の送り手が聴覚障害であろうと、何らかの障害を持たれている方であろうと、神のような善人であろうと、犯罪者であろうと、エリートサラリーマンであろうと、ニートであろうと、そんなことは全然関係ないと思っている。生まれてくる音楽のクオリティが全てだ。
そしてそれを感じるのは自分自身だと思っている。