福井陸軍大演習の昭和天皇(7)-陪観記者、そして祖父-

福井陸軍大演習の昭和天皇(6)-藤島神社行幸-」の続き。

【陪観記者】
さて、昭和8年の福井特別大演習と行幸にあたって取材を許可された新聞記者・通信員・写真撮影者は「陪観記者(ばいかんきしゃ)」と呼ばれ、その人数は237名にのぼった。福井県ではメディア対応のために「新聞係材料班」を設け、最大限の便宜はかりつつ対応をすることがマニュアル化されていた。
新聞係材料班執務心得
(新聞係材料班執務心得=福井県記録より)

一、班員は新聞記事材料の提示を求める人と接する際には、礼儀を正しくし、提供すべき新聞記者に対しては、懇切丁寧に対応するようにすること。

陪観記者にはプレスセンター(新聞記者会場)として福井商工会議所の建物が提供され、宿泊施設として市内12軒の旅館、そして自動車があてがわれた。例えば藤島神社からはじまった10月28日の福井市行幸では22台の自動車が陪観記者に提供されている。

この237名の名前は、すべて「福井県記録」に記録されている。
福井大演習 陪観記者
(陪観記者のうち「新聞聯合」の社員リスト=2ページにわたるものを合成)
僕はこの中に祖父の名前があるんじゃないかとワクワクしながら探してみたのだけど、12名の記者の中には祖父の名前はなかった。
それもそうだろう。陪観記者など入社3年目の新人に担当できるものではない。おそらくは係長・課長クラスの社員が担当したのだと思う。

【写真の裏側】
だからと言って、祖父が取材に関わっていなかったわけではない。
バラバラに残っていた写真の中に、こういう一枚があった。
昭和8年陸軍特別大演習取材時の祖父
(モーニングを着用した祖父=右側)

屋外で撮影されたこの写真は、サイズ、印画紙の品質、セピア色の感じまで、3枚の昭和天皇の写真と一緒だった。
モーニングを着用しているということは、大変儀礼的なイベントへの参加を意味している。そして、この写真の裏側にはこのような印刷がされていた。
新聞聯合社

◇ご注意◇この写真を当社と契約外の公刊物に転載し、また他に頒布の目的をもって複製したるものに対しては当社は正規の写真原稿料を請求す。なお当社の承諾を得ずして外国に頒布することは特に厳禁す。(読みやすくしている)

「聯合は / 日本における世界ニュースの集散中枢 / 日本全国新聞の共同機関 / 世界通信連盟の日本代表 / 非営利相互的の公益団体」ともあった。このあたりのことはこのシリーズの(1)に書いているけど、「新聞聯合」は通信社として全国の新聞社にニュースを配信していた。当時は著作権という観念が日本には根付いていなかったので、ストレートに「請求します」になっているのが興味深い。

だとすれば…..僕は恐る恐るアルバムに貼られている昭和天皇藤島神社行幸の写真をアルバムから剥がしてみた。
昭和天皇写真の裏側
同じ印刷がされていた。

【写真館と福井支局】
一回目の記事で紹介したように、祖父は「Fukui Shiseido」と印刻のある写真館で撮影している。
140927_granpa
「資生堂?」いや、何だろう?そこでまた近代デジタルライブリのお世話になる。便利な時代になったものだ。
おあつらえ向きに昭和9年の「福井商工人名録」があったので、そこから「写真館」の項目を探してみたら、あっさり見つかった。
福井市佐佳枝上町168-45に「至誠堂」という写真館があったようだ。これで間違いないだろう。
昭和9年福井商工人名録(近代デジタルライブラリより)
(至誠堂=昭和9年福井商工人名録=近代デジタルライブラリより。ちなみに隣の行にある「ライト」は藤島神社所蔵の写真を撮影した「ライト写真館」)

ついでに聯合通信社の福井支局の場所も調べてみた。
聯合通信社福井支局
地番は不明だが、「佐久良下町」にあったことがわかった。これを見ると通信社の記者が頻繁に出入りしていたと思われる新聞社の多くは「佐佳枝」とつく町に集中していたことがわかる。至誠堂と同じ町内だ。

これを現在の住所に比定するのは至難の業のように思われた。何しろ福井市という所は、昭和20年7月19日の福井空襲で市内の84.8%が損壊し、昭和23年6月28日の福井地震で全壊率79%という大変な被害を蒙っている。昭和天皇が行幸した藤島神社も例外ではなく、空襲で宝物庫と社務所以外はすべて焼失、地震では天皇が上った150段の石段も崩壊したと、現宮司代務の新田義和さんからはうかがっている。区画整理などで町名も変わっていることは、Google Mapの「という場所は見つかりませんでした。」という心暖まるメッセージからも明らかだった。

たまたま「越前若狭歴史回廊」さんのコンテンツに「明治後期福井市内地図」があったのは幸運だった。これによれば、佐佳枝上町と佐久良下町は福井市中央1丁目と3丁目付近がそれにあたるようだ。福井駅前、中央大通りと城の橋通りに囲まれた繁華街(佐佳枝上町)に至誠堂はあった。足羽川と中央大通り、そして昭和天皇が藤島神社行幸に利用した幸橋に囲まれた地域(佐久良下町)に聯合通信社の福井支局があった。
昭和8年福井特別大演習時の福井市地図
(「福井市記録」の地図に適当に描いてみた。緑は天皇の藤島神社行幸ルート)

【祖父は福井支局にいた】
こうなってくると祖父は新聞聯合の福井支局に勤務していたに違いない。そこで父に確認してみたら、あっさりこう返事された。
「福井….福井ねぇ~、うん、あったあった。そういえば俺が生まれる前(父は昭和10年、長野県岡谷支局時代に生まれている)福井にいたことがあるって言ってたな。ほら当時の福井って絹の生産が盛んだったろ?親父は経済の記者だったからそういう方面の情報を記事にしてたんじゃないかな。それで絹商人と仲良くなったんだろう。商人が持ってる骨董品(祖父は茶器、書画のコレクターだった)なんかを買ったって話を聞いたことがあったな。福井の特別大演習?それを取材したという話は聞いたことないなぁ」

陪観記者以外にも応援が必要だったことは想像に難くない。御料車で移動する天皇を追いかけて藤島神社への石段を駆け上がり、取材と撮影をして、お次は福井輸出絹織物検査所へ追いかけて、なんて早業を12名の記者(うち4名は写真と活動写真班)だけでカバーできるものではない。祖父や支局のスタッフは応援の形で走り回ったのだろう。

僕はモーニング姿の祖父の写真は福井特別大演習の際に撮影されたものだと推定する。撮影されたのはおそらく10月27日だ。

この日、昭和天皇の臨幸のもと3つの野外イベントが行われている。午前中は福井特別大演習を締めくくる観兵式が福井紡績株式会社用地(第一観兵式場=現在の福井市みのり町付近か)、次いで足羽川河原(第二観兵式場=九十九橋から下流北側)で行われ、午後からは福井高等工業学校(現在の福井大学)で「賜餞(しせん)」すなわち食事会が行われている。「賜餞」には秩父宮、高松宮、陸軍参謀総長の閑院宮載仁親王が出席したほか、時の斉藤実(ニ・ニ六事件で殺された)内閣の閣僚が勢ぞろいしている。当時陸軍少将だった東条英機の名前も確認できる。
昭和8年陸軍特別大演習第一観兵式
(第一観兵式。白馬に乗っているのが昭和天皇==「福井市記録」より=近代デジタルライブラリ所蔵)
昭和8年福井大演習賜餞場
(賜餞場=「陸軍特別大演習記念写真帖」より)

祖父の写真をみると、足元がロープにようなもので仕切られている。移動しながら取材するような大演習の現場ではなく「報道班はここで取材して下さい」的なものを感じる。背景に写っている構築物は仮設の観覧スタンドと思われるし、その周囲はだだっ広い広場となっている。想像の世界でモノを語るのであれば、これは第一観兵式場ではないかと感じた。
第一観兵式場地図
(「福井市記録」より第一観兵式場付近の地図。藤島神社も記載されている)

当時はメールで画像添付なんてできない時代だ。通信社が写真を配信する場合は、写真の現物が新聞社との間でやりとりされた。
祖父のアルバムに保存されていた3枚の昭和天皇の写真は、それぞれ何枚かが配信用にプリントされたものの一枚で、それを職権で入手した可能性はあるが、あるいは全くメディアで使用されなかったものを入手した、という可能性だってある。
昭和天皇
祖父が所蔵していた写真は左に傾いて撮影されており、供奉員全員を被写体に収めているために、天皇がその中に埋もれてしまっている。
昭和8年藤島神社行幸
「陸軍特別大演習記念写真帖」に撮影されたものや、藤島神社所蔵写真の方が、ずっと天皇が引き立っている。ボツになったものかどうかは撮影の翌日(昭和8年10月29日)に全国で発行された新聞をすべて調べればわかるだろう。

【大演習終了】
翌28日、藤島神社をはじめとして福井市内を行幸した昭和天皇にとっては、最後の29日が最もハードなスケジュールだったろう。
午前中は宮廷列車にて1時間30分をかけて敦賀町へと行幸、気比神宮、金崎宮、敦賀町役場を訪れたのち、再び福井市へと戻り「五県各種団体御親閲会」で二万二千三百人に親閲した。多くの県民が天皇の姿に感激したと「福井市記録」にはある。さらに午後6時からは「特別の思召し」によって侍従、県知事、主要な県役人ほか43名に陪食を賜った。
御陪食
翌31日午前7時40分宮廷列車は福井駅を出発した。天皇は舞鶴軍港に行幸したのち、再び京都御所で一泊し、翌11月1日に東京へと戻った。

これで昭和8年福井県特別大演習の全てのスケジュールが終了した。