関東大震災と磯子偕楽園の惨事

(寒いですね。前の記事が通算600本目だったことに、いま気付いたspiduction66です)。

日曜日のこと。
「墓地の広告が入ってたんだけど、ここから近いから見に行ってみよう」と父に言われた。
場所は磯子にある「金蔵院」という何だかリッチで黄金虫でも出てきそうなネーミングのお寺。
浜マーケットから磯子旧道に入ったところにあった。
磯子 金蔵院
1328(嘉暦3)年開創とあったから、まあ古いお寺だ。磯子七福神の弁才天があることで有名らしい。お墓の結論は父に任せるとして、気になったものを2つ。

これは第二次世界大戦中に作られた防空壕。
磯子 金蔵院 防空壕
墓地のある北側斜面から弁財天のお堂の裏側まで抜けているらしいので、総延長にして50m以上はあるようだ。むかし京急で横須賀に向かう途中、線路沿いの崖にこういう穴が無数にあったのを思い出した。

そして墓地の片隅にこんな石碑があった。
大震災横死者碑
「大正十二年 大震災横死者碑 偕楽園」とある。

中学生の頃の担任の先生の話だったと記憶しているけど、
「関東大震災の時、今の磯子プリンスホテル付近の崖が崩れ落ちて、大勢の人が亡くなった」というのを聞いたことがある。
そこには料亭があって、その名前が「偕楽園」という名前だったことは後年知った。
「ははあ、それだな」と思った。

磯子区役所のサイトによれば、「偕楽園」という料亭は昭和45年ごろまで現在の磯子駅前の三丁目団地の二号棟付近にあったようだ。
場所を移転してもっと後年まであったような記憶もあるが定かではない。

崖崩れで思い出すのは、小学生だか中学生だかの時分に本牧公園で体験したそれだ。
ちょうど雨の降る日だった。僕は公園内にある陶芸センターでコーヒーカップを作る羽目になっていた。突然「ドーン」という大音響が聞こえた。その時は「すごい音がしたね」程度で、あまり気にもかけなかった。あるいは雷だと思ったのかもしれない。
だけど、あとで陶芸センターを出てみたら、目の前の三渓園側の断崖(かつての海岸線だった)が手前の池の上に大きく崩れていたのである。いや「崩れた」というよりは、「剥がれ落ちた」という表現が正しかったかもしれない。崖の一部が大きく剥離して、池の上に倒れこんだような形になっていた。まだ周囲には若干の土ぼこりが漂っていた。
友人たちと皆であんぐりと口をあけて、それを眺めていた(プリンスホテル直下の崖が本牧公園のそれと地質的に同一なのかはわからない)。

さて「偕楽園」の話に戻そう。
横浜市中央図書館サイトの「関東大震災を調べる」のコーナーで、デジタル化された「横浜市震災誌」を読んでみたところ、「第二冊 第2編 災害と遭難」に以下のような記述があった。

崖崩れの最も激しかった所は料理屋偕楽園の付近であった。同園の裏には七間も崖が切り立っていたが、大震が起こると同時に、恐ろしい地響きを立てて長さ八十間(一間は1.8m)、幅十数間、坪数約一千坪の断崖が崩壊し、偕楽園の一部である三棟の家屋を押し潰した。
その中で女中が十六名惨死した。付近の民家一棟もまた埋没して、家人三名は生き埋めとなった。このほか丁度崖下を通っていた数名が生き埋めになった。
程経て幾人かの遺骸を発掘したが、崩壊の土石その面積は約四千坪もあったので、到底掘り上げることができなかったので、そのままにしている。
(中略)前記三人の死者を出した家は三好屋という俥宿であるが、その後主人は悲嘆の上、自殺を遂げたとのことである。

また、父が持っていた「磯子の史話」という本にも「偕楽園の大惨事」とわざわざ一項をあけて記述されていた。それによると「通りかかって生き埋めになった数人の中には地元の元名主の娘さんがいた」とか「小山のように盛り上がった石をどうすることもできないので、そのまま道にしたから、かなりの急坂になった」とあった。
この話のとおりに考えるならば、2009年現在はプリンスホテルの閉鎖によって通行止になっている通称「プリンス坂」の現在の傾斜は惨事の遺物、ということになる。
エピソードはまだある「西洋野菜をびくで背負って中華街へ運んだ帰りみちの二人の娘さんが、偕楽園の山崩れで生き埋めになり、何年かの後、市電の延長工事で土砂を掘った時に、当時のかすりの野良着のまま発見された」という話、これはもの悲しかった。
こんな風に「磯子の史話」では大きくこの災害を紹介し、さらには金蔵院の紹介までページを割いているのだが、なぜかこの慰霊碑のことは全く触れられていない。不思議だ。

これは余談だけど、このプリンス坂にほぼ並走する形で当時「間坂トンネル」というのがあった。大正の初期には「しだいに利用されなくなり、さらに危険になったので埋めもどしをされ(「磯子の史話」)」たトンネルなのだが、2008年の調査で110mにもわたってトンネルの空洞が現存していることが判明している。
間坂トンネルの発見に関しては「磯子マガジン」→「プリンス跡地の都市計画提案取り下げ説明会」という記事。
もしくは浅田 弘光さんの「青い鳥を求めて」→「まさか「間坂トンネル」」という記事などに詳しく紹介されている。必見だ。

話はそれるけど、今回インターネットで「磯子偕楽園」で検索してみたら、「アナキズム」というサイトに、「1919(大正8)年5月4日にアナキストの大杉栄が集会でこの磯子偕楽園を利用した」といった内容の記述があった。1919年といえば関東大震災まであと4年、大杉が震災直後の混乱の中で、危険人物として虐殺されたことを考えると、何やら不思議なものを感じる。

さて、石碑の裏側にはこう書いてあった。
大震災横死者碑

横死者氏名
小林銀蔵
田中銀治郎
佐々木民哉
清水秀雄
那須チヨ
秋元タケ
北村ハナ
村田ハツ
岩崎シン
伊藤ハル
山根トヨ
昭和四年九月一日
偕楽園主建立

名前は16人ではなく11人しかないのが不思議だが、震災から6年をへてこの碑を建立した経営者の想いというものが、痛いほど伝わってくる。