ヒロシマ -被爆建物(4)- 御幸橋

【御幸橋】
●住所:南区皆実町と中区千田町を結ぶ太田川水系京橋川に架かる
●爆心地からの距離 2,270m
●建造:昭和6(1931)年5月(2代目・現在は3代目)

大きな地図で見る
これは被爆直後に御幸橋西詰で撮影された有名な写真。
091103_miyukibashi
撮影者は中国新聞のカメラマンだった松重美人氏。氏は自転車で出勤途中にトイレに行きたくなり、御幸橋の手前で引き返して自宅に戻ったところで被爆した。もし引き返さなかったとすれば、もっと爆心地に近いところを自転車で走っていたことになり、あるいはこの写真が撮影されることはなかったかもしれない。

10時30分頃、御幸橋西詰にある派出所前にたどりついた氏は、あまりの悲惨な光景にカメラ撮影を30分も躊躇した後に、この写真を撮影した。時に午前11時。これが被爆当日に被害甚大な市街地で撮影された最初の写真となった。この日、氏が撮影した5枚の写真は、昭和20年8月6日に市内で撮影されたものとしては現存する唯一のもので(原子雲の写真は多数撮影されている)、これらについては中国新聞社のサイトに詳しい。「2枚目を撮影にする頃にはファインダーが涙で曇った」と後年語っている。
ただ、僕個人の意見を言えば、プロの報道カメラマンが原爆という悲惨な状況に直面して、それをどう記録しようとすべきかという使命において、松重氏は悲しいぐらい人間的に優しすぎたように思う。長崎被爆の翌日に入市し、膨大な写真を撮影した山端庸介の写真と比べてみたらいい(ちょっと辿りにくいですが「トップページ」→「JPM Photo Gallery」→「Gallery Entrance」→「The Day After The Nagasaki Bombing」と辿って下さい)。

その御幸橋を訪れた。
多門院のある比治山下からチンチン電車に乗り、京橋川にそって南下。平野橋を横目に見ながら4駅目の皆実町6丁目で降りた。原爆投下後の広島を描いた漫画に「夕凪の街 桜の国」というのがある。この10年で最も感銘を受けた漫画だったけど、その第一部(夕凪の街)の主人公の名前が平野皆実だったことを思い出す。そしてこの街は、今回の広島行きではお勧めのお好み焼き屋情報などで、お世話になった生徒のMさんの生まれた街でもある。
「私の母は子供の頃、御幸橋のたもとで泳いでいたそうよ」。
このお母様は女学生の勤労動員として旋盤工の仕事をやっている際に被爆した。
「窓のピカッと光った瞬間に、反射的に....もうそれは運としか言いようがない位、体がとっさに反応して.....大きな旋盤機械の影に隠れたんだって。気づいたら周囲はみんな重症で自分だけが助かっていたんだそうよ」。
でもこのお母様は、ほとんど多くを語らないのだそうだ。
64年後の御幸橋
現在の御幸橋は平成2年に架け替えられたもの。当時のものより10m以上拡幅されている。
だけど松重写真の中に見覚えのある建造物が残っていた。
現存する御幸橋親柱と中柱と欄干
当時の親柱と中柱と欄干の一部が橋の両端北側に保存されていた。

松重写真には以前からひとつの「?」が僕にはあった。
「あの有名な写真は橋のどの地点から西詰派出所を撮影したか?」だ。

①【橋の上から撮影した?】
歩道の縁石(自動車道との境目)が撮影者側の方へ伸びてきているから、一見橋の上(下流側の歩道と自動車道の境目)から西詰派出所を撮影したかのように見える。だけど、そうだとしたら欄干も同じようにこちら側に伸びてきていなければいけないはずだ。ところが、この写真で見る限り、欄干は見当違いの方角(写真の左手の方へ=河岸に沿って下流へ)と伸びている。

②【西詰北側から撮影した?】
西詰交番をほぼ真北にあたる上流側から撮影したのか?すなわち自動車道に出てそこから撮影したのか?といえば、欄干の方角は正しくなるけど、路肩の敷石が明らかに撮影者の足元まで伸びてきているのが矛盾する。これだと幅10mはある歩道となる。当時の御幸橋....いや日本の橋がそんなに歩道を大きくとっているとは思えない。
御幸橋欄干
今回は実地検分した体験をもとに、この疑問を思い切って「広島原爆資料館」に問い合わせしてみた。
すると、このような内容のお返事が来た。
「松重美人さんが撮影された写真ですが、御幸橋の上から西詰を撮影したものです。写真に写る橋の欄干は、橋の上にあったものではなく、西詰から南へ河岸に沿って立てられていたものと思われます。戦前の御幸橋の写真でも、河岸に沿って欄干が立てられているのが確認できました。」
御幸橋親柱
(シンプルなデザインだけど、威圧感のある親柱)
つまりこういうことだ。現在保存されている欄干の一部が、橋詰から直角に折れ曲がって河岸に沿って建てられている(ただし上流側のみ)のと同じように、当時この橋は贅沢にも河岸に沿った部分にも(おそらく保存されている部分と同じように橋の四隅に10m程度)河岸用の欄干が設置されていたようだ。
御幸橋
(2015年8/9追記:ここ数日、この記事へのアクセスが多いので、わかりやすく地図にしてみました。ヘタですが。主に管理人が撮影しているのは地図の下側=北側の欄干)

つまり前者の撮影場所が正しいことになる(僕が撮影した一番上の御幸橋の画像がほぼ同アングルということになる)。
だとすれば松重写真の「見当違いの方向に伸びる欄干」の矛盾は解けた。

ただもうひとつの謎が残る。
「歩道の縁石は撮影者側に伸びてきているのに、橋そのものの欄干が、縁石と平行にこちらに伸びてきていない」
この答は意外とあっさり判明した。
橋の欄干は「こちらに伸びてきていない」のではなく「消滅」したのだ。

これは被爆後の御幸橋を撮影した画像だ。
原子爆弾の強烈な爆風はほぼ北西からこの橋を襲った。爆風は橋の北側の欄干を画像のように道路側に倒し、南側の欄干を川に落下させたのだ。だから松重写真には欄干が写っていないというわけだ。
写真の左手で座り込んでいる負傷者たちは、屈みこむように座っている。
もたれかかるはずの欄干がないから、屈みこんでいるのだろう。
御幸橋 被爆解説板
御幸橋西詰には、立派な被爆解説版があった。
そこには原爆を投下した国からいまだ直視されることのない写真が掲げられている。