死後の世界はあるのか?

幽霊が隣に座っていても気づかないぐらい鈍感な人間なわけだけど、「天国も死後の世界もない」、英物理学者ホーキング氏が断言という記事はかなり興味を持って読ませてもらった。

記事によるとホーキング博士はこのように述べたという。

「(人間の)脳について、部品が壊れた際に機能を止めるコンピューターと見なしている」「壊れたコンピューターにとって天国も死後の世界もない。それらは闇を恐れる人のおとぎ話だ」

なるほど、世界的にも有名な物理学者による実に科学的な発言だ。
丹波さん(まあこの方も007の出演などで世界的に有名な人だったと言えるが)の「私は死後の世界を見たっ!」に比べると、コンピューターの回路停止に例えたこの考え方にはリアリティがある。

コンピューターの回路停止といえば、2005年に僕は似た体験をしている。上大岡東2丁目の交差点(いつも上大岡異業種交流会でお世話になっているTIDAさんとは目と鼻の先)を「原付を押しながら」横断中に信号無視のBMWに轢かれた時のことだ。

事故に遭った前後のことは一切覚えていない。覚えているのは教室を出て、原付のホルダーからヘルメットを取り出した時点まで。車が衝突した瞬間に意識の回路は切断され、前後の記憶も消去されたままとなった。

気づいたら病院のベッドにいて、ベッドの横で家族が泣いていた。

意識を失っている間に「お花畑」を見た記憶もなければ、さまよった記憶もない、誰かに呼び戻された記憶もない。つまり、記憶を失っていたという「記憶」もない。もっと恐ろしいことに、これ以降の数ヶ月分の記憶が未だにかなり曖昧である。

事故直後の自分の状態のたとえとして一番適当なのが「一度スイッチが切れて、また入った」という感覚だった。
意識が戻る体験ですらこうなのだから、スイッチが二度と戻らない死というものはどうなんだろう?
そして、決して継続的ではないけど、断続的に「死というのは完全な無の世界なんじゃないか」と思うようになった。

なぜ「断続的」と書いたかといえば、その後になって2人の祖母や叔父などを亡くしているからだ。そうした葬式の席上では、故人が死後の世界においても平穏であることを心から祈っているし、「これで天国の祖母も喜んでくれるだろう」と考えている自分がいる。

こうした想いを、ホーキング博士のように「闇を恐れる人のおとぎ話」という考えで処理してしまうほどの勇気は自分にはない。なぜなら、たとえ死後の世界がないとしても….少なくとも故人は僕の心の世界にあり続けるからだ。僕が「死後の世界なんてないよ、法事なんて闇を恐れる人の行為さ」とばかりに、祖母たちの葬式にも出席しないなんていうことは、自分の心の中の祖母たちまでをも無にする行為だからだ。

さて、ここまで書いて久しぶりに当時の記事(たぶん事故の2日後)を読み返してみた。当時のアヤシゲな意識と記憶の中で、自分でも恐ろしいことを書いているのに気づいた。

翌日警察署へ行って確認したら、事故直後の僕は冷静に事情を説明していたようだ。

↑誰だ、コイツ?
何しろこんな一文を書いたことすら忘れていた。
あの時はスイッチが切れていた、とずっと思い込んでいたはずなのに、予備回路が動いていたようだ。
この冷静に事情を説明している「僕」という人間は、いったい誰なんだろう?
あるいはコイツが僕が死んだ後に「死後の世界」というのを体験するのかもしれない。

すいません、オチのない話で。