おかげさまで「下山事件資料館」は10年を迎えました

下山事件資料館,管理人のたわごと

10年前、仕事もなくて人生の暗中模索をしていた頃、僕はひとつのウェブサイトを立ち上げた。その名を「下山事件資料館」という。
下山事件資料館
1949年(昭和24年)7月5日、国鉄総裁の下山定則は洗足池近くの自宅から運転手つきのビュイックで出勤の途上、日本橋の三越本店で運転手を残したまま失踪する。
そして約15時間後、常磐線の北千住と綾瀬間で、総裁は轢死体となって発見されたのだった。
下山事件
(下山事件)

おりしも7月4日、国鉄は人員の第一次整理を発表したばかりだった。人員の整理とは首切りのことだ。
GHQの経済顧問であるドッジの提言に基づく緊縮財政策(ドッジ・ライン)が吉田内閣によってすすめられ、国鉄もまた9万5千人の人員を整理しなければならない瀬戸際に追い込まれていた。
いっぽうで労働者側は対立の姿勢を鮮明にしていた。

そんな最中に「下山事件」は発生した。
総裁は首切りを苦にしての自殺なのか?あるいは共産党や労働者勢力による他殺なのか?あるいは共産党を陥れようとするGHQの陰謀(他殺)なのか?
その論争は事件から64年が過ぎた現在でも今なお続いている。

僕が「下山事件資料館」を作ろうとした理由は、別に大胆な推理でこの論争に終止符を打とうとしたのではない(自分なりには結論はあるけど)。
この限りなき論争をとりあえず置いておいて、7月5日の朝、出勤から失踪に至るまでの1時間17分を詳細に辿ってみようと試みたのだった。

下山総裁を乗せたビュイックの走行ルートを明らかにし、「何時何分にどこそこを通過した」という情報を元に、分単位で1949年7月5日の東京の原風景を立体的に浮かび上がらせようとした。
歴史の些末な事実をたぐりよせたロード・ストーリである。
また、自他殺説が入り混じり、朝の出勤ルートでさえも本によってまちまちなことを逆手に取って「イナバ物置史観」を打ち立てた。
「だったら下山総裁が100人いたことにすればいい。100人の下山さんは100台のビュイックに乗って自宅を出発、それぞれ好きなコースを廻った挙句、好きな時間に三越に入店する。そんでもってアメリカ、ソ連、共産党、Y氏などあちこちの機関に誘拐されたり拉致されたりして謀殺される」という恐るべき史観だった。
そして....こんな遊びの隠しページも作ったものだ。

僕が自分でWEBサイト(ホームページ)を作ったのはこれが初めてじゃない。
1999年に次女が生まれた時に親バカホームページを作り、それを2年ぐらいでつぶした。
まだ個人でホームページを作ることが珍しかった時代だ。

そして「これからは何かに特化したサイトを作ろう」と考え、お次は「1965」というホームページを作り出した。
1965年のロックや音楽の歴史だけに特化したクロニクル形式のサイトだった。
このサイトも「下山事件」の制作とともにつぶしてしまったが、この時の「特化する」という経験は、その後の自分に大きな影響を与えていると思う。
下山事件東京駅周辺関連図
(管理人が作った「下山事件東京駅周辺関連図」)

そして2003年の夏、「単独の事件の、どうでもいい些細な部分に特化した形で、誰もやったことのないようなウェブサイトを作ってみよう」というところから「下山事件資料館」の制作と取材にとりかかった。
当時は単独の事件サイトと言えば「帝銀事件」で死刑囚となった平沢貞道氏の無罪を訴える「救う会」さんのサイトがあるぐらいだった。
(奇しくもこの「救う会」の中心的存在だった平沢武彦氏の訃報に接したばかりだった)

だから「ある事件に特化して、どうでもいい内容を発信する」という意味では、かなり無茶苦茶な試みだった。
2013年10月4日、ちょうど甥っ子が生まれたので「記念にしよう」という理由で、この日にWEBサイトをスタートさせたのだった。
その甥っ子も、今日で10歳になった。

そんな風にして発進を始めた「下山事件資料館」は、自分のhtml技術への挑戦でもあった。
htmlだけで記述しようとせず、テーブルタグも一切使わないようにして、CSSだけでデザインを規定することにした。
だから今htmlソースを見ても(素人が作った割には)美しいはずだ。
まだCMSの時代まではちょっと時間があったから、当時としてはいいものを作ったと思っている。

現にこのサイトは、当時あったウェブサイトの相互評価サイト「一字(いちあざ)」で総合評価ランキング1位を獲得している(2003年12月8日)。
デザイン、テーマ、ソース、コンセプトのすべてで同じWEBサイトの管理人の方々から評価頂いたのだ。
また自分にとってはYahooカテゴリ(今じゃここへの登録を挑戦する人も少ないと思いますが)の「昭和史」に登録されたというのも嬉しい思い出だ。

結局のところ、この年の12月に独立して事業を始めることになり、翌年3月から本格的に忙しくなってしまった。何とか仕事と並行して更新を続けようと努力したものの、それも難しいままに10年が過ぎてしまった。

その間、兵庫で総裁のご親族の方にお会いしたり、再び松川事件の現場を訪れたりもしている。2009年には独自ドメイン「shimoyamania.org」を取得してサーバーを移転した。更新の方は「下山事件関連文献データベース」に情報を追加する程度になってしまっているが、お蔭で同じ「下山事件マニア」な方とお知り合いになれたし、何よりもこのサイト制作の中で培った技術で、自分のオシゴトのサイトも自力で作ってしまったのだから、本当にいい経験ができたと思っている。
g_08_extra
僕は「下山事件資料館」の更新を止めるつもりはないし、できることならCMS化したうえで、再び総裁の朝の行動を追ってみたいと思っている。
だってこんなに思い入れがあって、人生の道しるべとなったWEBサイトはないのだから。

そしてこのWEBサイトから生まれて、今でも継続して更新し続けているものがもうひとつある。
当時「管理人のたわごと」としてhtmlで書いていた日記は、その後blog化して、現在でも書き続けている。

それがこの「上大岡的音楽生活」だ。
特に資料館の別館として始まった「歴史の切れ端」シリーズは自分のライフワークになっている。