あの日、ぶどう峠を通った人

歴史の切れ端

僕の知り合いに群馬県の藤岡市出身の女性がいる。
1980年生まれの彼女、子供の頃、夏休みになると長野県諏訪に帰省していた。
諏訪には両親の実家があり、移動は車だった。

藤岡から諏訪への移動、その間に山が多い。どうもルートがピンと来ない。
彼女はそれを「ぶどう峠と麦草峠を越えていた」と明快に答えてくれた。

藤岡から長野方面へ抜けるには3つのルートが考えられる。現在なら国道254号(下仁田バイパス)が便利だ。下仁田を経由して佐久市へと抜ける道だ。とても快適な道で、妙義山のユニークな山系を左にみながら、内山隧道を越え長野県へと入る。

しかし1985年の夏....この道はまだ整備されていなかった。
内山隧道こそあったものの、その前後の区間は狭く曲がりくねった山道だった。

まだ「曲がりくねった山道」が当たり前の時代だった。
藤岡から諏訪方面であればむしろ国道462号の方が近かった。
神流川沿いに上野村へと向かい、十石峠(国道299号と共有)を抜けて佐久穂町に至る道だ。十石峠付近は現在もなお「関東一の酷道」と揶揄されている。

そしてもう一本が「ぶどう峠」。 標高1510mのぶどう山の稜線を越える。
上野村から県道124号を使って北相木村へと抜けるこのルート、当時の道路事情を考えれば、諏訪へ向かう最短コースだった可能性がある。

1985年8月12日のおそらく17時頃。藤岡から出発した彼女の一家はぶどう峠を目指した。当時5歳だった彼女は後部座席で自由にゴロゴロしていたか、途中で寝てしまったかのどっちだ。

今でこそ車幅も広く、線形も改良されている神流川沿いの道だが、当時は曲がりくねった道が上野村まで続いていた。しかしそれは序の口に過ぎなかった。上野村から県道に入ると、あっという間に峻嶮な山々に囲まれた狭隘な道となる。大型車の離合など困難な道だ。

峠の「とりつき」から先は延々とつづら折りのカーブが連続する。見上げればこれから通るであろう白いガードレールが何重にも連なっているのがわかる。「落石注意」という看板は何の注意も喚起しておらず「運が悪ければ死ぬ」と予告している。

家族の車は「夕方ぐらいにぶどう峠を越えた」と彼女は言っていた。
時間に関する表現はこれしかない。

1985年8月12日、直近の長野県佐久地方の日没時間は18時45分だった。
峠の直上では、まだ若干空が白んでいるような感じだったのではないかと思う。 それは藤岡を出て2時間、19時をちょっと過ぎたぐらいだったのではないか。

ご両親はぶどう峠付近で周囲に異様な臭いがたちこめているのに気付いた。
何かが焦げるような臭いだったという。

「なんか焦げ臭いね」。車内でご両親はそういう会話を交わしたそうだ。

ご両親はそれが「ケロシン」の燃える臭いである事など、知る由もなかった。
「ケロシン」とはジェット燃料の事だ。ぶどう峠から8kmほど南東の地点、 高天原山の尾根付近(通称「御巣鷹山の尾根」)で、史上最悪の航空機事故が発生したのは18時56分30秒頃の事だった。

日航ジャンボ機が墜落した直後、最も至近距離を通過した人だったのではないかと、僕は考えている。

歴史の切れ端