ここに小説があった
民俗学の草分けといえる柳田國男が明治時代に著した「遠野物語」に「炭取りの廻る話」というエピソードがあります。
「遠野物語」とは岩手県の遠野地方に伝わる民話や伝承、そして今の時代からみると「超常現象」と思えるエピソードの数々を紹介したものです。
東北出身だった僕の祖母がこの本が大好きでして、僕が小さい頃に様々なエピソードを話してくれました。
河童の話、ザシキワラシの話などなど....そんな中に自分の不思議な体験なども織り交ぜて話してくれたものです。
おかげで10代後半の頃には本気で民俗学を学ぼうと思っていたぐらいですし(志望の大学に落ちて断念しました)、今でもこういう話はかなり好きなわけです。僕に影響を与えた一冊だったと思います。
さて、そんな「遠野物語」ですが、そのエピソードの多くは柳田本人が遠野出身の佐々木喜善という人物から聞いたものでした。
そんな中に「炭取りの廻る話」という一編があります。
佐々木喜善の曾祖母が亡くなった時のこと。
身内で棺に遺体を入れたのち、喜善の祖母と母親とは囲炉裏を囲んで、寝ずの番で火を絶やさないように炭を足していました。
この地方では喪中の間に火を絶やしてはいけないという風習があったのです。
ところが、突然裏口から亡くなったはずの曾祖母が現れたのです。いわゆる幽霊というやつですね。
みれば来ている服もしぐさも生前のまま。ポカンとそれを眺めている祖母と母の目の前を曾祖母が横切ろうとした瞬間のことでした。
曾祖母の着物の裾が囲炉裏端にあった「炭取(すみとり)」に触れて、炭取がくるくるっと回ったのです。
「炭取」とは納屋などにある大きな炭俵から小出しに炭を入れておいて、囲炉裏に補充するための入れ物です。
遠野地方の「炭取」は丸底になっているので、曾祖母の裾に触れたはずみでくるくるっと回ったのです。
喜善の母親は気丈な人だったので、そのまま曾祖母を眺めていると、奥で寝ている親戚の部屋へ入っていって....というように話は続いてゆきます。
この「炭取がくるくるっと回った」という部分について、三島由紀夫が「ここに小説があった」と絶賛しています。
これは三島が「小説とは何か」というエッセイで書いているものです。
それをすべて引用するわけにもゆきませんが、とても逆説的な絶賛の仕方です。
「曾祖母の幽霊」というのは非現実の世界です。
裏口から入った曾祖母がそのまま奥の部屋へ歩いていってしまう限りにおいては、このエピソードはただの幽霊話にすぎません。
読み手もそのようにとらえながら、つまり非現実の世界の出来事と思いつつ読んでしまうでしょう。
ところが炭取がくるくるっと回った瞬間に、それはリアリテイ(三島は「日常性」と表現しています)をもって読者に迫ってくるのです。
三島は「くるくるっと回った炭取」には幽霊を現実の存在にさせるだけの力がある、小説におけるリアリティとは、長い叙述にあるのではなく、
こんなさらっとした描写で十分だ、これがまさに「小説だ」と絶賛しているわけです。
最後に彼は「小説と名がついているばかりで 、何百枚読み進んでも決して炭取の回らない作品がいかに多いことであろう」と、嘆いてもいます。
ここには三島自身の「自分もかくありたい」という願望や、くるっと回った炭取への羨望もあったのではないでしょうか。
残念ながらこのエッセイは三島の自決によって、未完の作品となってしまいました。
さて本日、劇団横綱チュチュの本公演「あれは春かもしれない」を見てきました。
演劇のストーリーや内容は省略しますが、僕が感心したのはこんなさりげないシーンでした。
それは舞台となっている介護施設で入居者が粗相ををするシーンでした。
あわてて職員役のとーるさんが、床を掃除しようとします。
とーるさんは、床を拭くのに雑巾なんて持ってこないんです。
持ってくるのはプラスチックのゴミ箱と新聞紙でした。
新聞紙で床の汚れをすいとって、ゴミ箱に捨ててゆくのです。
この瞬間、僕は上に書いた「くるくると回る炭取」のことを思い出したのでした。
これは「演劇」なのですから、この介護施設もあくまで舞台の上に作られた仮想空間です。
しかもとーるさんが掃除をしている間にも、どんどんセリフのやりとりがあって、話は進行している。
だけど、その仮想空間にリアリティを与えるのが、新聞紙だったりゴミ箱だったりすることもあるわけです。
おそらく、この舞台の演出家さんは(あるいは小道具係なのかもしれませんが)実際に介護施設で色々と見聞したのでしょう。
そうした細かいモノゴトの積み重ねが、なおいっそう横綱チュチュの演劇のクオリティや説得性を高めているのだと思いました。
二日間で4公演。しかもそのどの回もが杉田劇場の大ホールが満員でした。
これだけの集客力を維持できているクオロティとは、そうした説得力のあるリアリティの積み重ねなのではないでしょうか?
歌にも同じことが言えます。
ライブで生徒さんの歌を聞いていると、時折強烈にその生徒さんの人生や生きざまや想いが見えることがあります。
バンドであろうと、弾き語りであろうと、カラオケであろうと、見える時にはリアルに見えてくるのです。
そういう瞬間、僕はビデオカメラで撮影しながら「おっ、降りてきてる、降りてきてる」と内心思います。
何かが生徒さんに降りてきて、単なる「歌」にはなっていないんですよね。
そういう瞬間というのは、上手いとかそうでないとかを超えたところにあって、聞き手の心が大きく動かされます。
明日はいよいよ教室の年内最後のライブ。
何曲、そんな風に降りてくるかなぁと、今から楽しみです。
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