八甲田山雪中行軍遭難事件

歴史の切れ端

僕が小学校6年生の時(1977年)、「八甲田山」という映画が公開された。

明治35(1902)年1月23日、青森第五連隊の将兵210名が雪の八甲田連峰で大量遭難した。

ロシアとの戦争に備えて、雪山を踏破することで寒冷地での実地演習を行おうとしたのだが、折から直撃した大寒波(この1月23日、旭川で記録した零下41度の記録はいまだに破られていない)が八甲田連峰を直撃、199名が死亡、辛うじて生還した者も大半が凍傷により重傷を負ったという事件だ。同時期に弘前三十一連隊も十和田方面から八甲田連峰を踏破したが、こちらは37名の少数精鋭で全員が無事に帰還している。

この事件を描いた新田次郎の小説「八甲田山死の彷徨」を原作に、映画は作られた。いささか事実とは異なる部分もあるが、いずれにせよ世界的にみてもまれに見る大量遭難事件がこの八甲田山系で発生したことは紛れもない事実だ。(この事件に関しては北大路キンコ(!)さんの「八甲田山雪中行軍遭難事件サイト」やTOSHIBOさんの「八甲田山雪中行軍遭難悲話」が詳しい)

当時の僕は、この映画を母方の祖父母の住む阿佐ヶ谷の映画館で観た。館内の冷房がききすぎで、あまりの寒さに「遭難のバーチャル体験映画か!これは」と思った記憶と、役者の顔が判別できず(高倉健も、北大路欣也も加山雄三も小学生にはよくわからない)。猛吹雪のためますます誰が誰だかわからなくなり、よくストーリーがわからなかった。という記憶があるが、それでもなお大きな衝撃を受けた映画だった。

その後、新田次郎の原作も読んで、「いつか八甲田へ行こう」とは思っていたのだが、まさか30年近く待たされることになるとは予想だにしなかった。

まずはともあれ、胸をワクワクさせながら、青森五連隊があった場所(現在は県立青森高校)へと行ってみる。
青森五連隊跡
県立高校とは思えない程の広大な敷地が、かつて連隊の所在地だったことを匂わせる。とりわけ画像に写っている塀は(明治35年当時のものとは思えないが)、明らかに五連隊時代のシロモノだった。ついでを言えばこの校門を寺山修司も通っていたことになる。

今から104年前、明治35年1月23日午前6時55分、この門から進軍を開始した総勢210名の将兵は、待ち受ける運命も知らずに八甲田山系を目指した。

ここからほぼ平坦な道を3キロほど進み、若干上り坂になったあたりに幸畑という所がある。ここには当時、陸軍の共同墓地があった。五連隊の将兵たちはここで日清戦争で亡くなった兵士たちの墓に参拝し、15分の休憩をとっている。

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ここに一枚の不気味な写真がある。
幸畑における青森五連隊
従軍カメラマンや従軍記者もいなかったはずの五連隊だが、この参拝の光景が一枚の写真におさめられていた。
彼らの大半はこの写真を撮影して数時間後から数日間の間に凍死し、この幸畑陸軍墓地に埋葬されることになる。

この場所には以前から事件に関するオンボロ資料館があったのだが、2002年に事件百周年を記念して「八甲田山雪中行軍遭難資料館」として立派な施設へと生まれ変わっていた。

八甲田でのフィールドワークのため、ひととおりの情報を得ようと思い、係員の方に尋ねてみたが、むしろボランティアで解説をされている方の方がお詳しかった。ボランティアの方がおっしゃるには、八甲田山系では事件現場の要所要所に案内標識が立っているのだが、積雪による倒壊を避けるため、この時期(5月現在)はまだ外されたままなのだという。この方は地図上に「このあたりが後藤伍長の発見現場です、この辺りが五連隊の第一露営地です」てな具合で、プロットを入れて下さったのだが、「ほとんどは雪の中に埋もれていてわからないと思いますが、がんばって探してください」とのことだった。

資料館を見学後、墓地へと参拝する。
現在の幸畑陸軍墓地
風は肌寒いが、日差しは暖かい。八分咲きの桜の花がようやく春の訪れを告げようとしていた。
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墓石は隊列を組んで整然と並んでいた。今にも石のまま八甲田山系へと進軍しそうな勢いを感じた。そしてそこには厳然とした秩序と階級があった。軍での階級によって墓石の大きさに差があった。伍長→上等兵→一等卒という順に墓石は小さくなっている。そして将校クラスは一段高い場所にひときわ大きな墓石となって並んでいた。
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死んでもなお組織の一員であり、階級社会の一員である人たち。遺族にしてみれば様々な感情はあったかもしれないが、こうした埋葬の仕方を受け入れてしまう。おそらく名誉とすら思っていたのかもしれない。
「少なくとも今の社会の産物じゃないな」
そんな感慨を抱いた。

さて、ここから再び八甲田へ向けて車を進める。ほぼ一直線の坂道だが、勾配は次第に急なものとなってゆく。
田茂木野(たもぎの)は八甲田に通じる最後の集落だ。

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田茂木野
五連隊がここまで来た時、村人がこれ以上の進軍は無茶であると制止した。どうしても行くのであれば、地の利に通じた案内人を提供するとも申し出た。だが、五連隊側は「銭が欲しくてそのように言うのだろう」とその申し出を一蹴したと、明治35年2月8日付の萬朝報(よろずちょうほう)という新聞には書かれている。

当時の権力者に批判的であることが「売り」だった萬朝報ゆえ、この記事の評価は何とも言い難いが、新田次郎は「八甲田山死の彷徨」でこのシーンを象徴的に描いている。

ここから先、道は急坂へと豹変する。小峠、大峠を経た頃から積雪も深くなってきた。

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運転する僕の隣で家内がビデオカメラを回している。何しろカーブの多い狭い道だ。おいそれと車を停めてデジカメで撮影するわけにもゆかない。いっぽうで資料館のボランティアの方がおっしゃっていた「冬期は取り外されてしまう案内標識の跡」というのも気になるところだ。

いっぽう五連隊はというと、田茂木野以後はまず荷物をソリに載せて牽引していたソリ隊が遅れはじめた。
また風雪も次第に強くなり、気温も急激に降下していった。進軍を続ける兵士は、進んではソリ隊の到着を待ち、進んでは待ちを繰り返すことで、次第に体温を奪われていったようだ。小峠にソリ隊が到着した段階で、引き返すことを進言したものもいたが、結局雪中行軍は続行された。

僕の方はといえば、走行しているうちに、この標識に気づいた。
賽の河原
標識は外されていたものの、横の古ぼけた石碑に「賽の河原」と書かれていた。この不気味な地名は、この事件の発生以前にも20名もの村人を凍死させた「魔所」だった。実際に立ってみると、河原(原野というニュアンスか?)というよりは、尾根沿いのなだらかな斜面なのたが、おそらく尾根の両側から吹き上がってくる寒風に無防備な場所だったのだろう。行きは何とか通り越した五連隊の210名だったが、こののち道に迷ってさまよい歩いた挙句、この場所で30名近い凍死体が発見されることになる。

現在は気軽のもので、ここから車で5分も走れば、大きな駐車場のある「銅像茶屋」の前へと出る。
銅像茶屋
ここまで来ると積雪も深くなっている。茶屋で天ぷらウドンで腹ごしらえした我々は、無謀にも雪山を歩いて、「雪中行軍遭難記念碑(正式名称は青森第五連隊第二大隊遭難記念碑)」のある馬立場(うまたてば)という場所まで行ってみることにした。夏場なら整備された階段があるらしいのだが、すべてはまだ雪の下に埋もれている。雪が硬くなっているのがせめてもの救いだった。

記念碑のある馬立場までは、距離にして300m、標高差にして50m程度だと思うのだが、上まで登るのにたっぷり20分以上はかかった。
後藤伍長
この人は青森五連隊の後藤伍長。捜索隊が最初に発見した生存者であり、五連隊の遭難を最初に報告した人物だった。発見された際、直立したまま仮死状態になっていたことが美談となり、事件の「象徴的存在」となった。生存しているにもかかわらず銅像になった珍しい人だ(資料館の方の話では、この方の息子さんが90代の高齢で宮城におられるそうだ)。

210名の将兵の指揮官には神成文吉大尉(映画では神田大尉=北大路欣也)という人物がいた。さらに上官として山口鋠少佐が同行していた。ではなぜ下士官であるいち伍長がこのような銅像になったのか?というところが面白いところだ。穿った見方をすれば、凍死した神成大尉は「指揮官」だから責任上銅像にはできない、かといって山口少佐はあくまで「同行者」だ。しかも指揮官よりも上官の彼が同行したことで命令系統が滅茶苦茶になり、それが破滅への一因だったとする考えが一般的なため(実際この事件を組織論におきかえたビジネス本が今でも存在する)、結局消去法でこの人に決まったのではないかと思う。捜索隊を求めて直立のまま仮死状態で発見されたという「美談」にも陸軍の演出を感じずにはいられない。マイナスイメージを払拭するのに、ことさらプラスのイメージを作り上げるというのはプロパガンダの基本だ。

さて、この馬立場という場所だが、ちょっとした高地である。ここから見える八甲田の風景はこんな感じだ。
馬立場から見た事件現場
この写真は地図でいうと銅像から田代平湿原の方面を撮影している。いっぽう第五連隊の目的地は、田代平湿原よりはるかに手前の田代温泉だった。田代平湿原は僕が撮影している場所からみると落ち込んでゆく斜面とは対岸なのだが、この斜面下には鳴沢という沢がある(さすがに斜面から覗き込んでの撮影はできなかった)、鳴沢を越えれば田代温泉まではあとわずかである。馬立場からならばせいぜい3キロ程度の道のりだった。
ところがどっこい、この鳴沢こそが第五連隊を死地に追いやった「魔所」だった。

夕方17時すぎ、この馬立場で再び遅れつつあるソリ隊を1時間待った第五連隊は、この鳴沢に突入する。
後に第五連隊が発行した「遭難始末」によれば「この付近は急斜面で、積雪は胸まで達し、ちょっと進んではちょっと止まる状態で、その困難は言い表せなかった。特にソリは到底進むことができず、その荷は人手で運搬するしか方法はなかった」

そしてこのタイミングを狙ったかのように、「天候は急変し、雪はしきりに降り、風は激しく吹き荒れた」
もはや視界は奪われ、ソリ隊を待っている際には馬立場からもかろうじて遠望できた田代の湯どころか、前を進む仲間の姿すら見えない状態となってしまった。

その上、最悪の事態が発生した。田代の湯に先行させていたはずの部隊が、何と後方から現れたのだ。
ホワイトアウト(吹雪で上下左右の方向感覚が失われる)とかリングワンデリング(真っ直ぐ進んでいるつもりで、いつの間にか左へ、あるいは右へと進行して一周してしまう)とが同時に起こったわけだ。

わずか3キロ先の田代の湯に到達できなくなってしまった部隊は、ここにきて猛吹雪の雪上で露営(ビバーグ)することを決定する。夜8時15分頃のことだった。その露営地がこの画像の場所だ。
第一露営地
雪山で遭難した場合、最も大切なのは風や雪を凌ぎやすい場所を探し、救助が来るまでは絶対にそこを動かないことだという。ところがここでも「いたずらに体力を消耗するよりは、雪中行軍の目的は達成されたと考え、帰営すべし」という妙な考えが発生した。数時間の休養の後、翌24日午前2時、再び部隊は暴風雪の中を出発したのだった。

そして「死の彷徨」が始まった。

1月24日の八甲田の天候は零下20度、風速30m、積雪は最大で6~9mという最悪の事態となった。というか、この日青森測候所でも観測開始以来の最低気温である零下12度を記録している。そしてこの日の最高気温は青森市内においても零下8度だった。

1月27日、捜索隊が仮死状態の後藤伍長を発見した際、既に悲劇は終わっていた。救出された後病院で死亡した者を含めると199名が倒れ、残り11名のうち凍傷による足や手の切断手術を逃れたのはわずか3名に過ぎなかった。最後の遺体の収容が終わったのは、実に5月になってからのことだったという。

とまあそんなわけで最後は紀行から解説文になり果ててしまったが、こんな話をしながら運転しているうちに、いつの間にやら車は田代平湿原を走っていた。先ほどまでの山の厳しさとはうってかわって静かで広大な風景がそこにはあった。だけどそんな風景を眺めながら、いつ何時豹変するのかわからない八甲田の恐怖を、身にしみて感じていたのだった。

話、続く。

実はこの事件は僕にとっても決して他人事ではなかった。僕は映画を観た直後に祖母からこんな話を聞いている。

1:僕の曽祖父である鈴木浩文(祖母の父にあたる)は、この事件の後に青森もしくは弘前の軍隊に勤務していたらしい(おそらくは明治40年代=日露戦争よりも後、医療関係の軍人だった)。曽祖父が祖母に語った怪談がある。青森五連隊では雪の強い日になると、必ず八甲田山方面から「これから帰軍するぞぉ~」という合図のラッパと、大勢の兵隊の行進する足音が聞こえてきたのだという。当時の連隊長が「お前らは既に死んでいるのだ!廻れ右!八甲田へ帰れ!」と命令すると、足音は遠ざかっていった、というもの。

2:いっぽう、祖父小野寺五一は、この事件の数少ない生存者だった小原忠三郎伍長(昭和45年死去)にお会いして、事件当時の話を伺ったことがあるらしい。

とまあそんな話なのだが、この時点で曽祖父は他界していたし、祖父の小野寺五一も衰弱しており、どうにも確認のしようがなかった。そして僕にこの話をしてくれた祖母も現在96歳の高齢で存命だが、もはや僕のこともわからなくなってしまっている(今の僕はヒゲを生やしてメガネをかけているから、ますますわからないだろう。下手するとメガネヒゲだった曽祖父と間違えられるかも...)。

そもそも青森五連隊の怪談話は極めて有名な話だ。微妙に異なるものの新田次郎の「八甲田山」ほか各種「八甲田本」に必ずといっていいほど登場している。また青森のビジネスホテルの女主人もこの話を知っていると言っていた。それほど「ありふれた話」だ。たとえば黒澤明の映画「夢」に登場するトンネルのエピソードのモチーフになっているではないかとも思っている。曽祖父は自分の実体験ではなく、伝聞に基づいて祖母にこの話をしたのだろう。

一方祖父の話の方は興味深い。祖父は好事家とでも言うのか、色々な人のところへ押しかけて行って話を聞くのが好きだった。古くは大正時代に後の総理大臣犬養毅の別荘へ押しかけていったという武勇伝がある(その時の写真が現存する)。
そのくせしてほとんどの体験を記録に残していない。あるいは文章が散逸してしまっているのだからタチが悪い。調べたところでは、小原伍長は戦後になって箱根の風祭にある国立療養所で余生を送っていたらしい。祖父も箱根が好きな人だったから、もしかしたら何らかの接点があったのかもしれない。

今年で事件から104年が過ぎたわけだが、そんな昔の出来事にもかかわらず、とても微細なことではあるけど接点がある(可能性がある?)というのが単純に嬉しかったりする。時間とか時代とか歴史というものは切れ切れに存在しているのではなく、連続して繋がっている。そんな中に、遭難した兵隊も、その幽霊も、曽祖父も、祖父も、そして僕も存在しているのだ。

歴史の切れ端