レディ・ボーデン VS “AYA” – 1990年代の高級アイスクリーム戦争 [1]

管理人のたわごと

AYAの自動販売機

正月に蓼科の親湯(しんゆ)温泉に泊まった時のこと。
昨年(2019年)春に改装されたこのホテル、まずロビーにずらりと並べられた3万冊の蔵書に驚いた。

し・か・し・だ。
ホテルさんには申し訳ないけど、それ以上に我々夫婦に強烈なインパクトを与えたのが、このアイスクリーム自販機だった。

1992年頃、明治乳業(現明治)が積極的に展開をした「AYA」という高級アイスクリームの自動販売機だ。あれから27年、すでに現存していないものだと思っていたら、ここにあった。

僕もカミさんも明治の元アイスクリーム販売部員。夫婦して「うわあ、すげー」と驚いた。
異郷の地で懐かしい共通の友に出会ったような、そんな感覚だった。

「メーカーどっちだろう?」と自販機の下をみると「SANYO(三洋電機)」とあった。
「やっぱりSANYOは丈夫やね、「〇〇〇〇(他メーカー)とは大違いや」と家内が関西弁で毒を吐く。

彼女はアイスクリーム課で営業事務のかたわら、自販機トラブルの卸店への対応もしていたから、その点は詳しい。

フロントにいた40代ぐらいのホテルマンに尋ねてみると、この方が入社された時にはすでにここに自販機はあったらしい。数年前に故障した際、修理マンから「次に壊れたら、もう修理は不可能」と宣告を受けたそうだ。

28年を生き永らえたこの自販機は、いまや歴史的に貴重な商業遺産だ。
しかし同時にこのマシンは矛盾に満ちた様相を見せていた。ディスプレイには「AYA」の商品パネルがはめ込まれていながら、自販機のフロントには「Borden Home Made Type」というシールが貼られている。しかしながら販売されているのはグリコの「SUNAO」だ。こんな自己矛盾に満ちた自販機は珍しい。

そう、このマシンは複雑な高級アイスクリームの歴史を引きずりながら、ここで余生を送っていたのだ。

“明治"の時代

僕が明治乳業に入社したのは1990年の事だった。

我が家は元々アイスクリーム好きな家庭だった。一年を通して常にアイスクリームが冷凍庫に並んでいた。1989年8月の終わり頃だったと思うけど、追加募集のリクルート記事をみて「ほう明治か」と思いながら、何気に家の冷蔵庫の「冷凍室」を開いてみた。もしこの時に「冷蔵室」を開いていたら、自分の運命は大きく違っていたかもしれない。

驚いたことに「レディーボーデン」「うまか棒」「宇治金時」が並んでいた。すべて明治の商品だった。これは衝撃だった。

「知らず知らずのうちに我が家の冷凍室を支配しているなんて、きっと凄い会社に違いない」。

そんな思いを抱きながら会社説明会に臨み、その衝撃と感動を伝えたら、3回の面接であっさり内定を頂いてしまった。 当時は売り手市場だったから、僕のようなボンクラな大学留年組でもこんな立派な会社に入る事ができたのだ。

「うまか棒」も「宇治金時」も「ミルク金時」も自分の手で売ることができるし、何よりも高級アイスクリーム「レディーボーデン」を売ることができるのはスゲーと、関西へと向かったのだった。

ところが、全体研修を終え、いよいよ明日から課に配属されての研修に入るという前日....それは1990年の4月下旬だったと記憶している....衝撃的なニュースが入った。

「明治乳業、ボーデン社との提携を来年(1991年)4月で解消」

アメリカのボーデン社が、明治乳業と提携して「レディーボーデン」を開発したのは1971年10月の事だった。それまでアイスクリームといえば30円、50円、100円のノベルティ商品が当たり前だった時代だ。 「レディ・ボーデン」は950mlで800円 という値段で発売された、画期的な高級アイスクリーム(プレミアム・アイスクリーム)だった。

明治乳業は製造、販売、物流を一手に引き受け、その後20年の間にトップブランドに育てあげた。

それが来年以降、明治では製造することも売ることもできなくなる。
来年からはボーデン社が独自に製造と販売をするのだという。

僕は入社して配属されるなり、この事態に直面することになった。

この提携解消、その経緯についてWikipediaの記事「レディーボーデン」には間違った事が書かれている。

しかしボーデン社は、レディーボーデンを明治乳業のトップブランドとして販売することを契約の条件としており、明治乳業がアイスクリームブランドとして「彩 Aya」を立ち上げたことで競合することになり関係が悪化。ボーデン社が日本法人を設立し契約を解消した。

これは全くのデタラメだ。
誰でも記事を書けるWikipediaの事だ。誰がこれを書いたのかは容易に想像できる。

この時点(1990年5月)には「立ち上げた」も何も「AYA」は発売すらされていなかった。

アメリカ企業の常套手段に「ターゲット地域でのブランド浸透を他社に築かせておいてから本格的に上陸する」というのがある。明治は20年かけてボーデンブランドを育てあげた。日本にブランドが浸透した所で、ボーデン社は文字通り美味しいトコロだけを持って行こうとした。というのが真相だ。

彼らは契約の更新にあたって「今後は自社プラントを日本に置いて製造を行いたい。明治では販売と流通のみをやって欲しい」と申し出た。この「自社製造」というのは、あくまで一時的なことであり、いずれは販売と流通まで自社でというのが彼らの狙いだった。

「ボーデンブランド」を日本に浸透させてきた明治には、国内の酪農家との共存共栄という社会的な使命があった。ボーデン社が独自に生産プラントを立ち上げた後、原料は海外から輸入する事を示唆していた。当時の国内の乳業メーカーとして「はいどうぞ」とは言えない事情があった。

容易に双方の合意ができかねる話を振ってきたボーデン社は、20年にわたる蜜月関係を清算してしまったのだ。

さて、僕が課に配属された初日最初の仕事は「会議の資料を員数分ホッチキスでとめる」というものだったけど、この資料は「ボーデン提携解消」に関する経緯説明の資料だった。

その会議の席上、ボーデンに代わる独自の高級アイスクリームを開発中という話は出たが、まだこの時は「AYA」の「あ」の字も出でこなかった。

高級アイスクリーム戦争

この年から翌年にかけて、明治はボーデンに代わる独自の高級アイスクリームは3ブランドを発表した。「AYA」「ブルージェ」「ロマノ・ビンディ」だ。

最初にリリースされる「AYA」は、明治の威信をかけた商品だった。 最初の試食が行われたのは1990年の6月後半ぐらいだったと記憶している。本社の方が持ってきた無印のパッケージに入ったアイスクリームを興味津々で食べたのを覚えている。

「AYA」のダミーパッケージを最初に見たのは7月下旬ぐらいだった。研修を終えて営業として動き始めたのがこの頃だったからだ。課長に「お前は最初から営業土産があっていいな」と課長にからかわれた事を覚えている。営業マンの初心者なんて客先(卸店やスーパーの本部)に行っても、何を話していいのかわからないものだけど、自分には「AYA」という題材があるから最初から動きやすくていいな、そういう意味だ。

課長は数少ないダミーパッケージを私に優先的に持たせてくれた。

そんな「AYA」が正式に発売されたのは、1990年9月下旬のことだ。

もし「AYA」ありきの提携解消であるとすれば、「AYA」は用意周到に夏より前に発売されたはずだ。この9月下旬発売という事実は、提携解消による混乱の中での発売だった事を物語っている。

明治乳業「AYA」初期CM。 高橋恵子

こうして登場した「AYA」は、和風のパッケージからみてもわかる通り「国産の高級アイスクリーム」というコンセプトだった。

後年になりハーゲンダッツを意識したのか、味がどんどん「平凡なもの」になってしまったが、初期の「AYA」は匙加減もよく(オーバーランが高い)、一口目の味わいがしっかりしたものであるにも関わらず、後味がスッキリしているという個性的なアイスクリームだった。

「レディ・ボーデン」は好きなアイスクリームではあったが、これほどの個性はなかったし、売る立場になってみれば何の愛着もなかった。

いっぽうで今まで高級アイスクリームだった「レディ・ボーデン」のブランドを叩き潰すという事もやらなきゃいけなかった。先輩方には愛着もあったのだろうけど、自分には恩恵も愛着もなかったのだから、当然だ。

これは余談だが、3ブランドのうち「ロマノ・ビンディ」は、全国流通した国産アイスクリームの中では最高傑作だったと今でも思っている。日本のアイスクリーム製造技術は世界でもトップレベルだった。

特に「ロマノ」は国産アイスクリームの金字塔のような存在で、今だから書けるけどハーゲンよりも全然美味しかった。
ブランドの力とはそういうもののようだ。