京都で体験した阪神淡路大震災

管理人のたわごと

1995年の1月、僕は右膝のじん帯の手術を受けるため。京都の北大路にある警察病院に入院した。
高校生の時に柔道で半月板を損傷してから11年、医療の進歩によって内視鏡手術が可能となり、ここの病院ならば手術が受けられたのだ。
退屈しのぎにTVをレンタルしてもよかったのだけど、なぜかそれがもったいなく思えた。
どっさり本を持っての入院だった。

(1995年1月17日 管理人所蔵の京都新聞夕刊)

手術が行われたのは1月14日のこと。麻酔から目が覚めると、ギブスで足は固定されていたし、点滴も続いていた。

(京都新聞 拡大)

1月17日早朝、軽い揺れを感じた段階で、僕は目を覚ました。
「おっ、地震だ」と思った瞬間に、揺れは強烈なものになった。
まるで船に乗っているかのようだった。寝ているベッドもぐわんぐわんと揺れ出した。
ベットを仕切るカーテンのレールはガシャガシャ音をたてて揺れている。
点滴の袋は天井から下がった棒に吊るされていたのだけど、それだけがゆっくりゆっくり左右に揺れている。
レールの揺れの激しさと、スローモーションのように揺れる点滴袋との対比が何だか奇妙だった。

(1995年1月17日 京都新聞夕刊 事件面)

僕の口からは「お~、お~、お~」としか言葉が出てこない。
この状態でこれ以上揺れがひどくなったら、天井が落下してきて、身動きできないまま死ぬのかな?
そんなことを考えているうちに、地震は収まった。

「強い地震でしたね」と隣のベッドの人と会話したけど、とにかく眠かった。
再びうつらうつらしかけた頃、隣の人に声をかけられた。
「もしもし、阪神高速が倒れてますよ」
その人のベッドに設置されたTVを見て仰天した。
阪神高速道路が倒れている。町からは火の手があがっている。
ヘリコプターから生中継された阪神淡路大震災の最初の映像だった。

夕方になって仕事を終えた彼女が見舞いに来た。
彼女の実家の被害はテレビ台のガラスが割れた程度、朝は阪急京都線が不通だったため、自転車で出勤したのだという。神戸支店は建物が崩壊寸前、神戸支店に勤務するN君のアパートは全焼したけどN君は無事、係長の夙川のオンボロ社宅は無事だったけど周囲の一戸建て住宅がかなり倒壊したらしい、亀岡で今晩大きな余震が来るという噂が流れている、ようやく運転を再開した阪急京都線西院駅の大阪方面ゆきホームはリュックを背負った人でいっぱい、救援物資を運んでいるようだ、伊丹市ではただの魚肉ソーセージを一本千円で売っているとんでもない店がある、TVはコマーシャルを自粛したため公共広告機構のCMばかり流れている、そんな話を持ってきた。

(同京都新聞。太秦広隆寺の扉が倒れたことを記事にしている)

僕は「うんうん」と聞くしかなかった。
何しろ入院生活だ。時間だけはたっぷりあった。
こんな状態じゃなければ、救援のお手伝いができそうなもんだ。29歳の若いモンが、こんな場所で体をいたずらにもて余している。
それが歯がゆくて悔しかった。

震災前、最後に神戸を訪れたのは、地震の1年ほど前だった。
三宮で知人の結婚式の二次会があったからだ。その際、会場への道を迷ってしまい、いかにもという作りのタバコ屋で、いかにもという雰囲気のおばあちゃんに道を尋ねた。その人はとても親切に教えてくれた。
その後のニュースでその付近が滅茶苦茶に潰されてしまっているのを見た。
未だにあのおばあちゃんが忘れられない。

(1月18日 京都新聞朝刊)

この年の11月3日に、僕と彼女は結婚した。
その際の招待状にはこう書いた。
「震災だ、サリンだと大変な一年ですが何のそのです。私たちは結婚します」

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