一樹の陰(いちじゅのかげ)

夏目漱石の「我輩は猫である」に、こんな一節がある。

縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍(ろぼう)に餓死(がし)したかも知れんのである。一樹の蔭とはよく云(い)ったものだ。この垣根の穴は今日(こんにち)に至るまで吾輩が隣家(となり)の三毛を訪問する時の通路になっている。

野良猫の「我輩」が、いまの主人、英語教師の苦沙弥先生の家に飼われるきっかけとなったくだりだ。

ことわざデータバンク」で「一樹の陰(いちじゅのかげ)」とひもとくと、

「一樹の陰一河の流れも他生の縁」とあって、

同じ木陰に身を寄せて雨を避け、同じ流れの水を汲むというような、それだけのことも、みな前世からの因縁によるものであるということ。

と記されている。
「我輩」にとっては、苦沙弥先生の家に飼われるようになったのは、因縁によるもので、竹垣が破れていたのも、その因縁を繋ぐための「必然」だったということだろう。そして今なお、その破れは「我輩」で外界で因縁を結ぶための窓口となっている。という意味なんだと思う(もし、解釈が間違っていたら、ゴメンなさい)。

この言葉の出典は不明だけど、ググってみた限りでは、昔から多くの古典で使われていたようだ。
元々は仏教の言葉だったようだ。

僕は別に運命論者じゃないけど、「たまたま同じ木陰」とか「たまたま同じ川の水」なんていう現象でも、それを縁だと考え、大切にしなければならないと考えてきた(あるいはそれを語り継いできた)、日本人の美意識は、とても素晴らしいものだと思う。

日頃ついつい忘れてしまうんだけど.....
「一樹の陰」を大切にしなきゃなぁ。