東日本大震災記 (1)

東日本大震災の記録

大正12年9月1日に発生した関東大震災についてリアルタイムで書かれた作品のひとつに、大曲駒村(おおまがりくそん)の「東京灰燼記(かいじんき)」というのがある。
安田銀行の浅草支店長だった駒村は震災直後から「日中はおにぎりを持って毎日」帝都を歩き廻った。夜になると町内自警団の一員として警備につきながら自分が見聞したことを「なにやら机もどきの物の上にろうそくを立て」原稿を書き続けていたと、駒村の娘はそう回顧している。

駒村は、そうして書き上げたものを仙台の印刷所に依頼して、10月に「東京灰燼記」を出版した。いち民間人が書いたこの本は、公的に残された記録とは異なる震災の生々しい実像を伝えている。

むろん僕は被災者ではないし、被災地で震災に遭遇したわけでもない。駒村のように丹念に足で情報を収集することもできなかった。

だけど、自分の体験したことレベルで何か書いて残しておくことは、決して無意味なことではないと思っている。
たとえば関東大震災の際、逆に被災地から遠く離れた仙台で、どのような揺れがあり、どのような情報が錯綜したのか?ということは、とても興味深い。
また、自分がこうして改めて当時のことを記憶の新しいうちに書いておくことで、生まれてくる発見もあるし、教訓もある。
もちろん、首都圏直下型のM7クラスの地震が発生した場合に役立つ経験則があるやもしれない。

ここでは震災直後に備忘録的につけていたメモを元に記事を書いてゆく。

【禍福は….】
「禍福はあざなえる縄の如し」とはよく言ったものだ。
良いことと悪いことというものは常に裏表で起きる。
2011年の2月から3月にかけては、生徒数が過去最高を更新した月だった。
むろん、これが一時的なものに過ぎないということはわかっていたけど、これを「福」とするならば次に来るのは「禍」に違いないと、漠然と嫌な予感をしていた。
そもそも3月と4月というのは春先のせいか、何かと面倒な出来事が起きる月だった。はてさて今年は何が起きることやらと身構えていた。

偶然ではあるけど、2月28日に福利厚生用にカップヌードルとお茶のペットボトルを2か月分買い込んでいた。前日には通勤用の原付のガソリンを満タンにしていた。

もっと不思議な符合もある。
3月5日に教室主催の「春の社会科見学ツアー」として、関東大震災で水没した東京湾の要塞第三海堡の遺構を見学しに行っている(この時の内容は結局記事にできなかった)。

(追浜に保存されている第三海堡遺構)

この見学の後、関東大震災についての本を読んでみようと思い立った。
本棚から再度引っ張り出したのが吉村昭「関東大震災」と大曲駒村の「東京灰燼記」だった。
さらにGoogle先生の教えに従っているうち、「関東大震災等で発生した前兆現象」というサイトを読んでいる。

そんな風に、関東大震災の被害ついて再確認している矢先、まさかそれをはるかに上回る震災に見舞われるとは思わなかった。

【本震】
初期微動(P)を感じたのは、4月10日に開催される「Spring Live 2011」の楽譜と音源資料を作っている時だった。
「おやっ、揺れているな」と想い、パソコンから目を離して周囲を見渡した。
ゆるやかな震動は強弱を繰り返しながら20秒ぐらいは続いたと思う。そうしていると、スタジオの中から先生方と生徒さんが出てきた。
この時間、生徒さん1名が仕事でお休み、1名は通常のレッスン、そして1名は体験レッスンだった。
「震度3ぐらいかな」と思った。

(震災で落下したAスタジオの時計。Francfrancで買ったお気に入りの時計だったけど、あれ以来動かなくなってしまった。今は大切にしまってある)

これで収まるかと思った瞬間、ズシンと突き上げるような感じがあって、強い揺れ(S)が襲ってきた。
椅子から立ち上がると、驚いた顔をしている人たちに、ロビーのテーブルの下にもぐるように言った。
いま考えてもおかしいのだけど、あんな狭いテーブルの下に5人の人間がしゃがみこんでいた。

僕は....これもまたおかしいのだけど、その横に立ち、両手を広げてかばうような姿勢を取りながら「大丈夫、大丈夫」と根拠のない安心を与えていた。
そんな格好をしたところで、かばえきれるものではない。

(3月11日の日報。地震のため15時以降のレッスンを中止した旨が書かれてある)

【震度5】
僕は過去に震度5を3回経験している。
1978年の伊豆大島近海地震は横浜の自宅でトイレに入っている時だった。「地震の際はトイレの中が一番安全だ」と聞いていたので、「ラッキー!だけどこれは怖ぇ~」と思いながら揺れが止まるのを待った。
1987年の千葉県東方沖地震は、地盤が軟弱だと言われる市川市行徳の自宅で遭遇した。これはゴンゴンゴンと縦に激しく揺れた。ついに関東大震災がやってきたと思い「来た~、来た~」を連発していた。
この揺れは、自分の人生で一番恐ろしいものだった。
そして1995年には京都で阪神淡路大震災に遭遇している。
その時はガッタンガッタンと小刻みに横方向に強く揺さぶられた。

こりゃあ震度5か6だろうとは思ったけど、今回の揺れは「ねちっこい」と思った。
横に大刻みな揺れで、とにかくしつこい。過去に体験したことのないような長い揺れだった。
初期微動と言えるものが20秒ぐらい続いていたことを考えると、これはかなり遠方での大きな地震だということはわかった。
よもや今いるビルがつぶれるということはないだろうと思うと、なんだか気持ちは楽になった。

ラックに並べていた「エドサリバンショー」のDVDやCDが、ガサーっと床に散らばった。
次いで棚の上段に飾っていた川崎大師のお札も落下した。

(14時51分撮影。ちょうど震源地方向に背を向けて立っていたラックからDVDが落下した。そのあと川崎大師のお札が落下した)

【共振】
そのうち液晶テレビが共振をはじめた。地震と同期して大きく振れはじめたのだ。
まだ買って1か月ぐらいのテレビでだったので(笑)、こりゃあいかんと駆け寄って震動を止めた。
落下しないように角度を変えて安定させ、そして再びテーブルの前に戻ると、両手を広げてさっきと同じポーズを取った。

そうしたら今度はピュアウォーターのサーバーが共振しはじめた。上部に18リットルのタンクをかかえた機械は重心が高いのだろう。
驚いたのは、こんな重い機械が右下側の角(点)で蹴っつまづくように共振していることだった。普通は下の一辺(線)を軸にして揺れそうなものなのに。
あわてて今広げている左手で、機械の揺れを抑えつけた。

そうしていると、建物の外の路上から女性の「キャーッ」という声が聞こえてくる。
実はこれが一番怖かった。看板か何かが落下してケガ人が出たと思ったのだ(実際、そういう事故はなかった)。、

(これも同時刻に撮影。緊迫感漂う空気の中で、テレビ画面だけがノリノリだ)

ようやく揺れがおさまった。
誰もが真っ青な顔でお互いを見合わせた。
「何だったんだ、今のは」という顔だった。

(廊下に散乱した小物たち)

【簡易地震計】
後で冷静になってから気づいたことがある。ピュアウォーターのサーバーは「揺れの方向にあわせて正確に揺れていた」ということだ。
上部のタンク内にある水が、揺れの方向、すなわち震源からの方向に沿って激しく乱れたたために、機械本体もそれに連動したおかしな揺れ方をした、というわけだ。
かつて秦の始皇帝の時代に作られた「地震計」がまさにこんな感じだった。

(地震計。八方を向いた竜の像は鉄の玉をくわえている。それが地震の揺れの方向と大きさによって落下する、というものだったらしい)
それとメカニズムが一緒なのがピュア・ウォーターのサーバーだった。

これ以降、このサーバーは余震のたびに教室にとっての「地震計」となった。

(以後、どっかで続く)

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