横浜トリエンナーレ2008

管理人のたわごと

(こうしたアートについてうんぬん語ること、そのイベントについて語ることは、決して客観的ではありえません。運営にタッチされている方々には失礼かもしれませんが、これは3回のトリエンナーレを体験した平凡ないち観客の、あくまでも主観的な見解だと思って読んでください)。

螺旋状に構築された「作品」がありました。
期待に胸ときめかせて登っていったら.....屋上には何もありませんでした。

オノ・ヨーコならば「yes」というメッセージをそこ(屋上)に置いたかもしれません。
ジョン・レノンならば「おつかれさまでした」というメッセージを置いたかもしれません。
皮肉な見方をする人ならば、「これは”何かあるな”と思って行ってみるが徒労に終わる、そういう人間の習性そのものを楽しむアートだ」と思うかもしれません。
僕は内心思ったのは「これは今回のトリエンナーレのそのものを表現しているんじゃないか?」と、いうことでした。

行ってきました。現代美術の祭典「横浜トリエンナーレ2008」。

....って、これ3年前の記事「横浜トリエンナーレ2005」と全く同じ出だしです。

3年前、僕は「横浜トリエンナーレ2005」についてこう書いています。
「現代美術といっても、決して小難しいモノが並んでいるわけじゃない。観客参加型で楽しめる作品、観客が参加することで完成してゆく作品が多いというところがポイント」。

ところが、今回のトリエンナーレは、前回、前々回とは異質の展覧会でした。
第一に、今回の作品は「世界的な有名現代美術家」による高尚なオトナレベルの作品ばかりで、理論ではなくムードで考える右脳人間....いや僕の貧困なアート感覚では理解できない難解なモノばかりでした。前回、前々回にさまざまな作品から感じたメッセージ.....僕の子供たちの感受性でも受け止めることのできたメッセージ.....それが今回だけは、ほとんど受け止めることができなかったのです。
それと、見ていて楽しくなる、見ていて笑ってしまう、見ていて苦笑してしまうような作品、そういうものもほとんどありませんでした。

このミケランジェロ・ピストレットの「鏡の空間」、大広間の鏡がアーチスト本人によって割られて完成したこの作品は、本イベントでも有名なもののようですが、この作品を僕は理解できませんでした。
僕は暴力や破壊への衝動を表現すること自体は否定しません。たとえばThe WhoのPete Townshendはギターを叩き壊します。しかし、破壊の後には必ず新しい秩序(それが良い秩序か悪い秩序かはわかりませんがね)が生まれる、そういう人間の宿命を予言しなければ、アーチストとして無責任なんじゃないか?こんだけの鏡を割れば、確かにインパクトはあるけど、こんだけの鏡をただ壊しっぱなしかよ。鏡屋さんは泣いているぞ。そんなことを感じたのです。
もっとも、根本的に作者が意表を突いた別のコンセプトでこの作品を作っていたとしたら....この評価は違ったものになると思います。もっとも僕にとってそれは永遠の謎です。まあ、そんな風に個々の作品について観客にレベルの高い解釈が任されてしまっている、というのが今回のトリエンナーレだと思います(長女は割れた鏡を見て「ひどい....壊さんでもええやんなぁ」とつぶやいていました)。

どの作品も、会場に説明も解説もなく展示されていました(500円払うと作品解説を聞くことができるヘッドホンが貸与されたようです)。どちらかというと美術館に並んでいる高貴な美術品。見ることだけが鑑賞する手段、あとは自分たちの力で解釈と理解をしてね、という状態に近かったように思います。

第二に、今までのトリエンナーレにあった「伝え手と受け手との双方向性」が著しく欠落していたように感じます。
むろん観客参加型の作品はほとんど存在しませんでしたし、その際たる形であるパフォーマンス・アートに至っては、大半が閉鎖的な空間で見させられること、我々の回る順番が下手だったこともあって、ついぞお眼にかかることができませんでした。

前回の「横浜トリエンナーレ2005」は「文化祭」と酷評されたそうですが、それでもまだ家族みんなで楽しめました。会場を適当に歩いていると、タニシKが電動自動車で会場内をウロウロしていたものです。子供たちはゴッドパーニャのボディをボコボコにしていたし、そのゴッドパーニャ氏から、この辺境blogにコメントも頂いたものです。

前々回の「横浜トリエンナーレ2001」では、自分の作品の前をアーチストがウロウロしていたので会話ができたぐらいでした。ちょうど開催中に全米同時多発テロが発生し、アーチストの一部が自分の作品を改変して、眼前で「反テロ」を訴えた作品に作り変えていたのが印象的でした。
テーブルの上にキャンデーが山盛りになっていて、観客はそのキャンデーを自由に取って食べていい。それによって刻一刻と変化してゆくキャンデーの山の形こそが作品だ。というものもありました。これなんか典型的な観客参加型の作品ですね。
またジョエル・シオナの「イン・ハビテーション-ヨコハマ」では、部屋の外側に無数の小さい丸いのぞき穴があり。そこから覗くとシオナ自身が「室内の住人」としてさまざまなパフォーマンスを行っていました。僕が見たのは無言で彼女が紙きれを食べているところでした。当時5歳だった長女に陰で「わっと・あーゆー・どーいんぐ?」と教えて、覗き窓から質問させたら、彼女が「クスッ」と笑ってくれました。そうしたら娘が「笑った笑った!」と大喜びし、それにつられてシオナが大笑いする、なんてことがありました。

次女はこんなことを言っていました。「自分がわかっていても、まわりの人がわからなかったら、意味ないよね」。
そんな次女が一番気に入ったのは....

「ジャガイモが山積みでスタジオに入れない」
という一枚の写真作品でした。

お次は僕が気に入った作品を挙げてみます。
なぜか今回から写真撮影がOKになりました。
ベドロ・レイエスという人の短編人形劇「ベイビー・マルクス」

スターリンや毛沢東、マルクスやレーニンやチェ・ゲバラなど、共産主義の大物が総出演、「涙あり、笑いあり、流血あり、革命ありの感動の太作映画」の予告編映画です。
その人形もツボでしたが、BGMがThe Beach Boysの「Shut Down Vol.2」だったのも笑いました。The Beach Boysなんて資本主義の象徴みたいなバンドですからね。でもこの21世紀に何で「共産主義」なんでしょうね。

ケリス・ウィン・エヴァンスのこの作品(作品名不詳)も気に入りました。モビールには片面が鏡、片面がスピーカーという不思議な物体がつるされていて、モビールが動くに応じて、聞こえる音楽の雰囲気も変化する作品でした。音楽もたまにはこんな風にフラフラするのがいいですね。

これは誰のなんと言う作品かわかりませんが、床に投影されている窓、その幻想の窓から見える野外を、色々なモノが落下してゆくのです。
「投影」といえば、画像はありませんが、「見えない彫刻」とかいう作品もかなり強烈でした。全体的にはメイン会場である新港ピアの「スカスカ感」よりは、日本郵船海岸通倉庫会場の方が「ギッチリ感」があります。ただこの会場には「子供にゃ見せたくない、自分も見たくない」、スプラッタとエロの映像があります。

赤レンガ倉庫の会場では、「過去の前衛短編映画展」みたいなのを開催していました。
おいおい、過去の作品に頼るんかい!

この中で「バス名所観光ハプニング」というのが印象的でした。1966(昭和41)年の作品です。東京駅前から観光バスに乗った乗客たちが、行く先々でハプニングアートに巻き込まれる、という作品です。集団の中には上の画像のようにカラフルな(といっても白黒ですが)風船を持っている人がいます。サイケデリックな時代を予感させますね。
アーチストは廃テレビに卵をぶつけて海にほおりこんだり、乗客たちを全員ロープで結びつけたり、といった感じで、その場その場で「ハプニング的な何かをやらかす」という作品です。
これを見て驚いたのですが、「観光バスの乗客たちが行く先々でハプニングに出会う」という設定は、翌1967年にThe BeatlesがTV放映用に製作した「マジカル・ミステリーツアー」という中編映画と、全く一緒なんです。この映画はポール・マッカートニーのアイデアによるところが大きいのですが、当時はむしろジョン・レノンよりもロンドンあたりの前衛アーチスト連中と交流の深かったポールと、極東の前衛映画との関係は気になるところです。
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さて、前回や前々回のトリエンナーレに親しんできた人間にとって、急激な質の変化は不意打ちでした。
その違和感だけではなく、「もう次回はないのでは?」という不安感すら感じました。

今回のテーマは「TIME CREVASSE (タイムクレヴァス)」、これは「時間の亀裂」という意味だそうです。
僕はむしろ、主催者と観客の間に横たわる「亀裂」が心配でした。

会場で偶然遭った知人の話では「三渓園会場」が面白そうです。
当面日曜日は休みナシなんで、またどこかで無理やり飛び出します。

管理人のたわごと