天明三年、浅間山大変記 ~鎌原村土石流~

歴史の切れ端

今日は長いよ。興味のある人だけ読んでね。

中学3年から大学を卒業するまでの10年間、僕は千葉県市川市の南行徳に住んでいた。江戸川の河口近くにある町で、隣は浦安市だ。マンションの窓からはディズニーランドの花火が見えた。

僕が通っていた高校はこの川のずっと上流にあった。自転車なら30分。セミアコのエレキギター(今でも職場の入口に飾ってあるヤツ)を肩からさげ、川沿いの道をギコギコ走っていた。

川の対岸は東京の江戸川区、気まぐれに東京側を通って帰宅することもあった。どちらから帰ってもさほど時間差はない。東京都を通過しても帰宅できる数少ない千葉県立高校生だったことはたしかだ。

そうした東京都側の通学路の途中に善養寺というお寺があった。
善養寺影向の松
ハードロックと寺社仏閣が好きという高校生だった僕は、このお寺の「影向の松(ようごうのまつ)」が有名だと聞き、ある日立ち寄ってみた。なるほど、とてつもなく横に広がった松で、ただただ「すげー」と感嘆するしかなかった。そんなお寺の中を散策しているうちに妙な石碑を見つけた。
天明三年浅間山噴火横死者供養碑
「天明三年浅間山噴火横死者供養碑」。

浅間山といえば群馬県だか長野県あたりの山だ。江戸時代に大噴火を起こしたことも授業で習った。だけど、何でその慰霊碑がこんな東京の下町にあるのだろう?

横にあったぞんざいな説明板を読んでみると、こんなことが書いてあった。浅間山の噴火の被害にあった水死体が江戸川の下流のこの辺りに流れてきた。それで哀れに思った地元の人たちがお金を出しあってこのような石碑を作り、供養をした。そして今なお法要を続けている.....

噴火と水死体との因果関係がいまひとつわからなかったが、生まれつきの事件災害マニアな僕にとって、この石碑は妙に心魅かれるものがあった(あと江戸っ子の心意気にもね)天明の浅間山大噴火が頭にインプットされたのはこのときからだった。
だけど、この噴火にまつわる場所を訪れることになるのは20年後のことだった....
浅間山

さてさて、高原キャベツで有名な群馬県の嬬恋村に鎌原(かんばら)という集落がある。以前は鎌原村という独立した村だった。コニーデ型火山の浅間山から北へ13キロ、浅間のなだらかな山すそが急峻な斜面や絶壁で吾妻川に落ち込む手前にある。車ならば軽井沢から「浅間草津ライン」を進めばいいし、電車なら、吾妻線の万座・鹿沢口駅が一番近い。

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東西をなだらかな丘陵に挟まれた鎌原は、ペンションが立ち並ぶような保養地でもなければ威勢のいい観光地でもない。生活の匂いだけがプンプンする何の変哲もない場所だ。
鎌原集落
僕はこの場所を初めて訪れたのは2002年、そして2004年には再び訪れている。この場所には僕の心を捉えて放さない「何か」がある。
鎌原集落2
と、いうのも「鎌原村」が世界的にみても稀にみる大災害に見舞われた土地だからだ。

天明3(1783)年、7月8日(現在の暦では8月5日)、おりから噴火活動を続けていた浅間山が大噴火した。噴火によって山頂付近から吹き飛ばされた大量の巨大溶岩塊は、浅間山の北麓に落下し、落下のエネルギーを直進のエネルギーへと変えた。最大で時速100キロともいわれる速度で北へと猛進した溶岩塊は、地上に存在する土石や川の水、そして木々をも巻き込み、二億トンともいわれる熱泥流と化して鎌原村へと襲いかかった。それは噴火から10分にも満たない時間だった。

当時、鎌原村には550名以上の村人が暮らしていた。鎌原は信州長野と上州群馬、そして草津温泉を結ぶ交通の要所で、宿場と農村を兼ねた賑わいのある所だった。幕府の直轄地で人々の暮らしも裕福だった。諏訪神社、秋葉神社などと別に、浅間山の神体である浅間大明神の神事を司る(別當職という)延命寺という格式高いお寺もあった。村の隅には観音堂もあった。

すでに4月から浅間山の噴火鳴動は始まっていた。大量の降灰や度重なる地鳴りによって、すでに旅人も途絶えつつあったが、村人がこの地から避難するということはなかった。しかし7月8日の噴火は根本的に違っていた。浅間山の方から轟音を上げてせまりつつある「何か」に気付いた村人は、村の高台へと逃げ出した。

ある女性は、自分の母親(あるいは義母)を背負って村の西側にあった観音堂(下の画像)に続く石段へと走った。背後からは怒涛のように流れくる熱泥流の轟音がせまっていた。振り返る時間などなかったはずだ。生への執着と肉親への愛情だけで彼女は逃げ続けた。ようやく石段の下へとたどりついた。だがそれで終わりだった。熱泥流はこの2人をなぎ倒し、50段とも言われた石段の上部15段だけを残して埋めつくし(画像参照)、そのまま人家も牛馬も何もかも押し流しながら村をつぶしていった。
鎌原村観音堂
この村で生き残ったのは幸運にも村から外出していた人や、観音堂や高台に逃げおおせたわずか93名だけだったという。

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村を覆いつくした熱泥流は村北部の急斜面(地図の付近)から雪崩のように吾妻川へと流れ落ちた。大量の土砂、岩石、家屋などの流入によって一瞬吾妻川はせき止められ、そこに水位100mとも言われる自然の巨大ダムを作り出したという。だがすぐにダムは決壊し、今度は大洪水となって吾妻川を流れおち、次々と下流の村々を呑みこんでいった。
吾妻川。右手前に巨大な溶岩塊がある
約1時間後、40キロ下流の群馬県の渋川付近で利根川に流入した熱泥流は、勢いを落としながらも各地に被害を与え続けた。群馬県前橋付近での目撃譚によれば、川一面がどす黒く濁り、壊れた家屋、家財道具、牛馬や人間の死体などが入り交ざって川幅一杯に流れてきた。いまだ高温の石が火を吹きながら流れてくるために、川の水温は熱湯のようになり、周囲は煙がもうもうとしていたそうだ。中にはまるごと流れてくる家の屋根の上に取りすがっている人の姿もあったという。そして25時間後にはどす黒い泥流は150キロ下流の江戸川の金町付近でも目撃されている。江戸川の中州には無数の遺体が打ち上げられ、住民の手によって善養寺に葬られた。今でも利根川、江戸川流域にはこのような供養碑の類が相当数ある。
中之条の浅間石
上の画像に写っている巨大な岩石は鎌原から20km下流の中之条に流れついた浅間山の溶岩石だ。いかにこの噴火のもたらした破壊のエネルギーがすさまじかったかを物語っている。

天明3(1783)年の浅間山の噴火の死者約1,500人といわれている。しかし被害はそれだけではなかった。関東一円に火山灰が降灰したために、農作物は壊滅的な打撃を受け、大気に舞い上がった灰は太陽の光を遮ったため、天候不順となり、いわゆる「天明の飢饉」をもたらした。これによって全国で140万人もの人間が餓死あるいは病死したともわれている(さらに偏西風にのった灰の微粒子がヨーロッパでも同様の被害を与え、フランス革命の遠因になったとする説もある)。

話続く。
最大の被害地鎌原村では、名主の指示によって生き残った93名に対して家族の再編成が行われた。妻を失った夫と夫を失った妻を夫婦とし、子供を失った親と親を失った子供を結びつけた。熱泥流に埋まった土地の上に再び区画が組まれ、過去の財産の多寡にかかわらず、全てのものに平等に土地が分け与えられた。人々は鎌原を離れることなく、再びその土地の上に新しい生活を築いていった。

いつとはなしに、村の片隅に小さな石の道しるべが建てられた。
道しるべには「右すがを・左ぬま田みち」と刻まれた。
鎌原村の道しるべ
この石が、どこでどう拾われてきたものなのかは、わからない。
しかし、浅間山の噴火からそう遠くない時期であったに違いない。
村人はその石が、被災以前の鎌原村と縁のあるものだということに気づいていたのだろう。道しるべの裏側には元々「別」という文字の右半分が(逆さまになった状態で)刻まれていたのだ。
鎌原村の道しるべ

明治43(1910)年吾妻川で洪水が発生した際、吾妻町矢倉付近の河原で、大きな石碑が発見された。
「○當 浅間山 延命寺」と書かれたその石碑は、かつて鎌原村にあったとされる延命寺の遺物に他ならなかった。やがて鎌原村にある道しるべの石が、この石碑の右上の欠損部分だということが判明し、昭和18(1943)年、この石は160年ぶりに里帰りしたのだった。
延命寺石碑

実際この道しるべの石が延命寺石碑の欠損部分なのか試してみよう。
まず、道しるべの画像を逆さまにして、背景部分を消す。
鎌原の道しるべ(さかさま)
色合いをグレーにし、サイズと角度を調整して延命寺石碑の画像に貼り付けてみる。
鎌原村延命寺碑(復元)
ちなみに「別」の字だけ拡大すると、こうなる。
別當
おーおー、合った合った。
これで「別當 浅間山 延命寺」と読めるではないか。

昭和54(1979)年、鎌原村で大規模な発掘調査が行われた。
今では15段しかない観音堂の石段を、さらに下まで掘り下げていったところ、次々と石段が露出してきた。地下へ5m、35段ほど掘り下げたところで、二体の女性の白骨遺体が現れた。老若二人の遺体は折り重なるように倒れており、若い女性が老いた女性を背負った状態で災難に遭ったことは明らかだった。このセンセーショナルなニュースは全国を駆け巡り、「日本のポンペイ」として鎌原を一躍有名なものにしたのだった。

現在は観音堂の内部と近くの嬬恋郷土資料館に発掘の成果が展示されている。木炭化した家屋の一部、馬の骨、生活用品、装身具など多岐にわたり、とても見ごたえがある。

ああ、僕ですか?いずれまた行こうと思ってます。

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