桐島聡の50年と50年前の自分
永年にわたって交番に貼られていたあの爽やかな笑顔が、どうやら消されるときがきたようだ。
本日のニュースでは神奈川県の病院に偽名で入院していたある末期がんの患者が「自分は桐島聡だ」と名乗ったらしい。
現在、警視庁が身柄を確保し、身元確認を行っているそうだ。
桐島聡の逃亡を手助けする人間が、自らの死と引き換えにそう名乗っている可能性もないわけではないが、僕は本人であると根拠もなくそう思っている。
余命のない人間が、自己の名前を翻してわざわざ他人を名乗る必要もない。
いやむしろ50年という逃亡に自ら終止符を打ったと考えた方が自然だ。ただ誰がどう証明するのか?DND鑑定が行われても本人だと結論づけられるのか?
どこまで「本人しか知りえない事実」を聞き出せるのか?そもそも50年にわたって「指名手配」の貼紙をしながら、いざ捜査という際にどこまで捜査資料や本人確定に至る資料を保管できているのだろうか。
桐島の直接の容疑は1975年4月18日、銀座にあった韓国産業経済研究所に手製爆弾を仕掛けたというものだ。しかし一連の連続企業爆破事件に「東アジア反日武装戦線 さそり」の一員として深くかかわっていた事は間違いない。中でも東京丸の内の三菱重工爆破事件は死者8名、重軽傷者376名という当時最大のテロ事件となった。
その1974年8月31日、僕は小学校の3年生だった。
その日までは夏休みで、僕は阿佐ヶ谷の祖父母の家に泊まっていた。
僕はこの日に横浜まで帰る予定だった。
きっと新学期を前に髪の毛ボサボサになっていたのだろう。
昼過ぎに祖母がお小遣いをくれて「帰りがけにこれで床屋に行ってらっしゃい」と言ってきた。
祖父母の家から阿佐ヶ谷駅に向かって細い路地を300mほど進むと左手に床屋がある。
どうも祖父母の一族は髪の毛をスッキリさせたい傾向があるようだ。
小さい頃には大叔父からバリカンで頭を刈られた事もあるし、祖母からはよくこの床屋に連れていかれたものだ。
実は近年、この路地を通ったら、まだ建物と店構えが残っていた。
「髪を切ってください」と言って「どんな風に」と尋ねられたら「普通です」と言うように仕込まれていた僕は、この日もそんな会話でバーバー椅子に座ったんだろう。
お店ではラジオが流れていた。
そうしたら突然「ニュースです。東京の丸の内にある三菱重工の本社ビルが何者かによって爆破され、多数のけが人が出ている模様です」という意味のニュースが入ってきた。
床屋の親父さんと常連らしい人が「ひゃあ、ひどい事しやがる」とかそういう意味の事を言った。僕が髪を切っているウチに、続報がどんどん入ってきたのを覚えているが、ラジオ番組自体は緊急特番にならなかったんじゃないかと思う。
そういえば、祖父の当用日記が手元にあったなと思い、1974年の日記を開いてみた。
どうやらこの「お泊り」は8月23日に始まったようだ。
祖父の日記は達筆すぎてよく判読ができないのだけど「一時に三十分位前(12時30分という意味)に東京駅にて俊公(僕のあだ名らしい)を待つ、一時すぎ●から来る。車中にてきっぷを●●し直ぐみつかる」とあった。
それで思い出した。当時は横浜の洋光台に住んでいた。洋光台から京浜東北線で東京まで行ったのだった。
初めての「ひとり旅」だったと思う。東京駅まで祖父が迎えに来てくれて、それで阿佐ヶ谷まで連れていってくれたのだ。
僕の記憶の中に、祖父と車中から秋葉原の高い鉄橋を走る黄色い電車を眺めたというものがあるけど、それはこの時のものだろう。
8月29日の日記にはこうあった「朝十時●●、俊公を連れて北公園まで地下鉄で行き科学技術館に行く。帰り毎日新聞の●●●●中食にラーメンを喰う。俊公一人で(阿佐ヶ谷に)帰るというので、別に●●●●へ行き...」
この時の事も思い出す。乗ったのは東西線だ。行きの車中で「お前はこういうの知っているか」と祖父が突然詩吟を歌いだしたのはこの時の事だった。そういう祖父だった。
科学技術館へ行ったのはこの時が初めて。確か「ロボット博覧会」ではなかったかと思う(数年後、僕はここで手塚治虫を目撃している)。
日記に書かれているように、自発的に「阿佐ヶ谷に一人で帰る」と言ったわけではない。
祖父が「俊、俺は用事があるけど、お前ひとりで帰れるか?」と言われたから「うん、帰れるよ」と言っている。今とは子供に対する扱いが全く違う時代だった。
この時、祖父から「中野で中央線に乗り換えろ、快速には乗るな」とか言われたのかもしれない。だけど僕の乗り替えたオレンジの電車は阿佐ヶ谷を通り過ぎてしまった。荻窪かどっかで引き返した記憶もある。幸いな事に小学校一年生の頃から関内にあるY.M.C.A.の体操教室に通っていたし、小三の頃は東神奈川までカブスカウトで通っていたから、なんとなく電車には乗りなれていたんだろう(いやむしろ今の方が本当に電車に乗りなれていない)。
そして三菱重工爆破事件のあった8月31日の日記。
僕の記憶については前段に書いた通り。驚いた事に祖父に日記には全く異なる記述があった。
「朝俊公帰る。仕度して自分は九時過ぎに出社し十二時過ぎ帰る。」
いやこれはおかしい。自分の記憶の方が正しい。おそらく祖父は朝から外に遊びに行ってしまった僕を「帰った」と思い込んだのではないか。
そして祖父が帰社した時には、僕はすでに帰ってしまっていた。
祖父の日記は爆破事件にも触れている。
「三菱の爆破事件誠に困ったことなり 世の中があまり自由になりすぎるとこんなことになると憤慨にたえない。家に帰っても気温のせいか気が重い。早く寝る」。
散髪を終えた後は、その足で阿佐ヶ谷駅から電車で横浜まで帰った。
帰り道は簡単だ、オレンジの中央線で東京へ行き、青の京浜東北線で帰るだけだから。
当時の僕は東海道本線なんていう裏技は知らなかったし、青の電車で一駅一駅じっくり帰るのが好きだったと思う。理由は駅名を覚えてゆけるからだ。
さて、三菱重工本社ビルが爆発した瞬間、2百メートルほどの至近距離にいた人がいる。
東京駅で電車を待っていた僕の父だ。
「駅で電車をドーンと大きな爆発音が聞こえた、何かと思って爆発音のした方を見ると、ビル街で白い煙がたち上った。さては何か爆発したなと思った(2024年、父に再確認ずみ)」
さて、50年もの間、交番の壁に貼られて我々に微笑み続けてきた桐島聡。
「指名手配」というタイトルに似つかわしい爽やかな笑顔のギャップが印象的だった。
彼のこの50年の逃走劇に関しては誰もが気になる部分だ。
僕は北朝鮮あたり亡くなったとばかり思っていたけど、永年支援者に匿われていたのだろう。
その支援者すら亡くなり、あとは偽名で一人生き続けてきたようだ。
しかし、どんなに支援者がいようと、彼は常に孤独であり、社会からの無縁者だった。
帰る故郷もなく、公然と住む家もなく、社会の片隅で「かくれんぼ」するしかなかった。
「もういいかい?」「まあだだよ」
大衆の中の孤独を経験した桐島は、今どんな哲学や思想を抱いているのか、ぜひ知りたいものである。
1月29日追記:桐島聡と思われる人物は入院先の病院で亡くなりました。テレビのコメンテーターが「自己顕示欲があさましい」という意味の事を言っていましたが、50年にわたる逃亡人生の事を思えば、人間に対する洞察が足りない発言だと思いました。一方で謝罪の言葉や新たな真実が謎のままに消えた事を残念に思います。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません