東京ローズ、森山久そしてディーブ釜萢

歴史の切れ端

僕には追悼記事を書くと必ずニ連チャンになってしまうというジンクスがあるようだ。9月26日、東京ローズことアイバ・戸栗さんが亡くなったというニュースが入ってきた。享年90歳だった。

「えっ、誰それ?」と言う人は読むべし読むべし。

まず話は100年前にさかのぼる。19世紀の終わりから20世紀の初頭にかけて、貧困から逃れるため、大勢の日本人がアメリカへとわたっていった。いわゆるアメリカ移民である。そうした中に森山、釜萢(かまやつ)兵一、戸栗遵(とぐり...じゅん?)という3人の日本人がいた(森山氏の名前はあいにくわからない)。

Tokyo Rose at Sugamo Prison
森山はかの地で写真術を学び、サンフランシスコで写真屋を始めた。釜萢兵一はサンフランシスコ近くのオークランドでテーラー、やがて洗濯屋、やがて古着屋を開業した。戸栗遵の仕事は...よくわからない。とにかくそうやって仕事を始めた彼らは、じきに妻を娶り、そして子供が生まれた。

1910年 森山久(もりやまひさし サンフランシスコ生まれ)
1911年 ディーブ釜萢(釜萢正)(ロサンゼルス生まれ)
1916年 アイバ・戸栗(戸栗郁子)(ロサンゼルス生まれ)

この3人はアメリカ人社会の中で、アメリカ人として育った。だけどアメリカ人たちは彼(彼女)ら日系二世のことを、アメリカ人とは思っていなかった。移民に対する激しい排斥の空気の中で、この3人が自分たちのアイデンティティに激しい葛藤を持ちながら成長していったことは想像に難くない。

1929年、ウォール街で発生した株式の大暴落により世界大恐慌が始まった。アメリカ人ですらマトモに仕事に就けない時代だ、森山久もディーブ釜萢もたちまち仕事に困るようになってしまう。そんな時、「日本でジャズをやればカネになるぞ」という話が舞いこんで来た。

1933(昭和8)年、釜萢は日本に渡った。そして翌年には森山も日本に渡っている。当時の森山の回想によれば、昼間はコロムビア・レコードのスタジオでトランペッター、夜は赤坂の溜池にあった伝説のジャズ・ホール「フロリダ」で歌っていたらしい。昭和12年には日本初のブルース(いわゆる淡谷のり子系のジャパニーズ・ブルース)のレコード「霧の十字路」をコロムビアから発売している。

Tokyo Rose at Sugamo Prison
この二人が知り合ったのはきっとそうしたセッションを通してのことだったのだろう。
お互いに流暢な日本語を話すことができない日系二世だった。たしかに日本での演奏は「カネになった」が、そのいっぽうで日本人の外見でありながら、日本人ではないことで白眼視される自分たちの立場を、お互いにあい哀れんでいたに違いない。

やがて釜萢は日本人女性と結婚する。いっぽう、森山も釜萢の家に遊びにゆくうちに、家に出入りしていた釜萢の奥さんの妹さんと仲良くなり、やがて結婚する。

1939(昭和14)年1月12日 釜萢弘(かまやつひろし)誕生

この前年、日中戦争が勃発し、日本は急激に戦時色が濃くなってゆく。ジャズという音楽は不要不急の音楽であり、軽薄な音楽だとみなされ急激に下火となっていった。

ここでアイバ戸栗が登場する。

アイバ戸栗は成長し、医者を目指してカリフォルニア大学院に在学していた。ところが1941(昭和16)年7月、発病した叔母の見舞いのため、とつじょ日本へと行くことになった。

初めて訪れた日本という国を、彼女は決して好きにはなれなかったようだ。ところがここで彼女の運命をねじまげてしまう事件が発生する。アメリカのパスポートを正式に取得しないまま日本に来てしまった彼女は、12月2日にロスに向かって出航する予定だった浅間丸に乗りそこねた。そうこうしているうちに12月8日、太平洋戦争が勃発してしまったのだ。

彼女は敵国の中にひとり、置かれることとなった。

アイバ戸栗は周囲にすすめられた日本人帰化も断り、そのまま「日本人の顔をしたアメリカ人」として、敵地で生きてゆくことになった。それは彼女の中にあったアメリカに対する純粋な信念だったのだろう。だがこの信念が災いする。

いっぽう釜萢と森山は日本人帰化を受け入れた。彼らは日本での生活が長すぎた。この国は知人も多く、向こうに帰っても失業するだけだと考えた(実際にはこのころ、アメリカでは日系移民はすべて収容所に入れられていた)。あえて米国籍に固執する理由もなかった、と森山氏は後年語っている。
以後彼らは「日本があまり上手に喋れない日本人」として、この国で生きてゆくことになる。

1943(昭和18)年、NHK海外局のタイピストとしてパート勤務していたアイバ戸栗は、思いもかけぬ申し出を受ける。アメリカ兵に対して行っている「謀略放送」のアナウンサーをやって欲しいという依頼だった。

GIとアイバ戸栗
この頃のNHKは、敵のアメリカ兵にホームシックや厭戦気分を起こさせるため、意図的に情報操作をした番組を放送する必要があった。「ゼロ・アワー」「サンデー・プロムナード・コンサート」などとタイトルがついた一連の番組がこうして生まれた。

その番組では女性アナウンサーがささやくように電波を通して英語で語りかけてきた。
「アナタがそこで戦っている間、アナタのワイフは自宅に男を呼び込んでいるのよ、気づかないの?」。
「アナタの可愛らしい娘さん、毎晩”パパ!”と言って泣くんですって」
そしてその合間をぬうように「ムーンライト・セレナーデ」「スターダスト」「私の青空」といったジャズの生演奏が流れるのだ。アイバ・戸栗はそういう仕事をしていた。
この放送を行った場所は、当時NHKがあった東京千代田区内幸町の放送会館。
当時の建物の写真はコチラ

斉藤憐氏の「昭和のバンスキングたち(1983)」によれば、1944年の「ニューヨーク・タイムズ」にこんな記事があるらしい。「現在、戦闘しているアメリカのGI(兵隊)たちの中で、ラジオ・アナウンサーの人気投票をするなら、驚くほど多数の票が”東京ローズ”など”日出ずる国”より南太平洋に流されている番組に集まるだろう」

そう、面白いことに、これらの放送はアメリカ兵にとって大人気だった。彼らは極東の国から流れてくるアヤシゲな女性の声の持ち主に対して「トーキョー・ローズ」と名づけたのだった。

そしてそのジャズの演奏に加わっていたのが、ほかならぬ森山久とディーブ釜萢だった(上掲書にはそう書いてあるけど、釜萢に関しては日本兵として出兵し、中国で終戦を迎えたというムッシュの文章もあるため、真偽は怪しい。追悼記事で書いたため、この文章はやっつけ仕事になっていることを覚悟されたし。なお、森山は間違いなくこのセッションに参加しており、のちにアイバの裁判に証言者として出廷している)。

(なお、当時の録音が現存する。海外のサイトだが、
“The Zero Hour" Sounds & Picturesの「September 10, 1944」などと書かれた一連の画像をクリック。
もうひとつは、 “Orphan Ann"(“Tokyo Rose")というサイトの下の方、The Broadcasts以下にある一連の音声ファイルや画像ファイルなどがそれだ。ここはTokyo Roseに関する完全なデータベースで、いかにありとあらゆるメディアが「Tokyo Rose」を取り上げていたかがわかる)。

日本の国民が「一億総火の玉」となって戦争に臨んでいた。ジャズのような軽薄な音楽や番組などもっての外という時代だった(僕が以前書いた「敵性音楽の追放」を参照願います)。

そんな時代に、日本の放送局の中枢でこのような音楽や言葉が流れていた。心おきなくジャズの演奏ができることを、不思議に感じながらも楽しんでいる人たちがいた.....

法廷でのアイバさん
1945年8月、日本は敗戦国となった。
日本に上陸したアメリカ軍は早速「トーキョー・ローズ」を探した。
実は何人もの女性がこの放送に参加しており、アイバさんはその一人に過ぎなかったのだが、彼女もまた「トーキョー・ローズ」であることには変わりはなかった。彼女は最初ヒロインのようにアメリカ兵に親しみをもって囲まれた。そして次の局面では逮捕されてしまった。もちろん罪状は国家に対する反逆罪の疑いだった。アメリカ国籍を変えなかったがゆえの悲劇だった。

いっぽう、早々に帰化した森山久やディーブ釜萢“は、敗戦3ヶ月後からNHKで放送開始された「ニュー・パシフィック・アワー」で、思う存分ジャズの演奏を楽しんでいた。
公然と自分たちの好きな音楽がやれるという開放感の中で、釜萢は、渡辺弘とスターダスト・オーケストラの専属歌手を経て、日本初のジャズボーカルの専門学校(!)である「日本声専音楽学校(のちの日本ジャズ学院)」を開校、そこから平尾昌章、ペギー葉山、柳澤愼一(「奥様は魔女」のダーリンの声の人)、武井義明、新倉美子、青山ヨシオらが巣立っていった。
いっぽう森山久は昭和23年に女の子に恵まれている。

1948(昭和23)年1月18日 森山良子誕生

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同じ年の9月、証拠無しという理由で何とか放免されたアイバ戸栗は、7年ぶりに故国へと帰った。ところが彼女を待ち受けていたのは、またもや「反逆罪の疑い」だった。やがて彼女には終身刑が下され、アメリカ市民権すら剥奪され、1949年、ウェストバージニアの刑務所に収監された。

1956(昭和31)年、仮釈放されたアイバ戸栗には、国籍すら存在せず、戻るべき祖国はどこにもなかった。この悲劇の裏に存在したのは、根強く残る人種差別に他ならなかった。彼女に同情した人たちの運動が結実し、フォード大統領の恩赦が出て、ようやくアイバ戸栗にアメリカ国籍が戻ってきたのは1977年のことだった。

その前後、時間はこんな風に流れていった。
1960(昭和35)年2月 かまやつヒロシ(ひろし)「殺し屋のテーマ」でデビュー
1965(昭和40)年5月10日 かまやつが加入したザ・スパイダース、シングル「フリフリ」でデビュー(5/10)
1967(昭和42)年1月2日 森山良子「この広い野原いっぱい」でデビュー
1969(昭和44)年 TAROかまやつ 誕生
1969(昭和44)年5月25日 TAROかまやつ、アルバム「スパイダース’69」収録の「ムッシュ&タロー」の泣き声SEでデビュー
1976(昭和51)年 森山直太朗 誕生
1980(昭和55)年 ディーブ釜萢 死去
1990(平成2)年 森山久 死去
1980年代のアイバ戸栗
その意図がどうであれ、目的がどうであれ、彼女は敵国においても純粋にアメリカ人であろうとしたし、森山と釜萢は純粋に音楽を楽しんでいた。ところがその先の人生は大きく異なってしまった。
人間の純粋さは、それが純粋であるが故に、それが置かれた社会の中で様々な形に歪んでしまうようである。困ったものだ。

2006(平成18)年9月26日 アイバ戸栗 死去

追記:
Tokyo Roseに興味のある方は:“Orphan Ann” Home Page
Tokyo Rose
Discover Nikkeiの「Tokyo Rose」など。
圧倒的に英語のサイトばかりです。おそらくアメリカではここ数日、もっと大きく記事がとりあげられているのでしょう。

追記2:まあこれでも聞いて下さい。

歴史の切れ端