ハニフ1号にも愛をこめて
月曜日はKAKEL、YAGGY、ケンモッツーの3人と埼玉にある鉄道博物館へ行ってきた。
神田須田町の交通博物館時代には2度ほど行ったことがあるけど、ここへ来るのは初めてだ。
「わざわざ月曜日に行く」というのがポイントで、定休日の僕以外は休みを取っての参戦だった。年末の月曜日という一番空いてそうなタイミングを狙って遊び放題遊ぼうという目論見は見事に成功し、シミュレーターは1人待ち、外でプチ電車を運転できるやつ(正式名称がわからない)は、1時間後の整理券であっさり運転できた。
(プチ電車で指差呼称をするKAKEL)
僕は「鉄」と言えるほどの知識もないけど、とにかく昔の機械を見るのが大好き。
あまり鉄道の知識もないものだから、根拠のないガセネタばかり言っていたように思う。
「おっ、宮城道雄が展望台から転落した列車って、こんなんじゃないかな?」
(マイテ39形式客車….と言うらしい)
【不正解】筝曲家の宮城道雄が転落死したのは、寝台列車の「銀河」。そもそも展望台から転落したんじゃなくて通常使われる昇降ドアから転落した模様。
「おっ、三鷹事件で突っ込んだ電車みたいだ。こんなヤツならば、昭和40年代に洋光台駅にも来ていた。中央に柱があるんだよね」
(国鉄40系電車)
【不正解】三鷹事件で突っ込んだのは国鉄63系電車。桜木町で炎上したのも同型。形式はわからないけど、昭和46年頃の洋光台駅にこんな感じのあずき色の電車が停車していたのは事実で、横浜線からの乗り入れだった。
「おお、これがガソリンカーかぁ。戦争前に大阪の安治川駅でこんな車両が転覆して火事になってね、200人近い人が亡くなったんだよ」
(キハ41000形式気動車)
【不正解】西成線列車脱線火災事故が発生したのは安治川口駅で、車両はキハ42000形気動車。
まあいいか(^^;)
他にも、
「戸口から戸口へ」が妙に懐かしかったり…..
(国鉄101系電車の非常用ドアコック)
子供の頃、京浜東北線でこれが引きたくてウズウズしていたことを思い出したり….
(国鉄101系電車の路線図シール)
このシールをツメではがそうとしたことを思い出したり…..
(国鉄101系電車のドアのゴム)
ドアが閉まる時にわざと指を挟んで外の冷たい空気を指先で感じ、引っこ抜くと妙に指先が温かくなることを思い出したり、下敷きを次の駅まで挟みっぱなしにしたことを思い出したり….
(国鉄101系電車の扇風機)
くるりの「ファンデリア」風に撮影してみたり、冷房のついた電車(今から思うと103系とかいうやつ。1970年代の中頃が過渡期だったと記憶している)に乗ると「ラッキー!」と思った子供時代を思い出したり….
(2Fにあった電車の窓の復元模型)
こんな窓じゃ火災になっても逃げられないよな可哀そうに、と、桜木町事件の被害者に同情したり….
(「朱鷺(とき)」の運転席への階段)
黒澤明「天国と地獄」の酒匂川鉄橋シーンで、石山健二郎演ずる「田口部長刑事」が8mmフィルム機を持ってこんな階段を昇り上がるシーンを思い出したり…..
(0系新幹線の冷却飲料水)
これを見た瞬間に、当時のトイレの臭いを思い出し、滅多に経験しない「”臭い”という記憶の掘り起こし」を体験したり….
(0系新幹線のテーブルと灰皿)
テーブルも灰皿も動かないことが妙に寂しかったり……
(旧四谷隧道の兜型装飾)
神田須田町の交通博物館以来、久しぶりのこの兜と再会できたことが妙に嬉しかったり…..
(ジオラマ室の天井)
鉄道模型ジオラマの天井の照明が妙に綺麗だと感心したり……
(66.7)
「66.7かよ!すげー!」と驚嘆する3人にむしろ驚嘆したり…..
(C55型機関車)
食い入るように流線型の美しさに見とれたり……
(御料車)
僕にとっては今回の最大の楽しみだった御料車が、交通博物館時代より車内が覗けなくなっていることに不満タラタラだったり……
(コレクションギャラリーにて)
所蔵品を収納した倉庫の一部を公開した「コレクションギャラリー」の奥の窓の向こうに、交通博物館時代に展示されていた「円太郎バス」がないかと必死に写真を撮影しようとしたり……
(東北新幹線シミュレーター)
山手線シミュレーターでは有楽町駅をオーバーランしてそのまま東京駅まで突っ走ったり(普通ならば草むしりの刑らしい)
、新幹線の加速って意外と悪いんだなと車レベルでモノを考えたり……
そういう事を書きだして行くと本当にキリがないので、最後に最も印象に残ったものを書いてみる。
それがこれ。
(ハニフ1形式=デ963形式電車 車号デ968)
なんだろう?この車両が持つ独特のオーラは。
他の車両が比較的美しい状態で保存されているのに対して、こいつはたった一台だけボロボロの状態で置かれていた。永年外気にさらされて劣化した外板はささくれ立っていて、下部では腐食も進んでいる。触られないように周囲にはガイドポールが張り巡らされている。
そんなボロボロの車両なのに、圧倒的な存在感を持っている。
甲武鉄道飯田橋~中野間(現在の中央線の一部)で活躍し、国有化により国鉄最初の電車となる。(中略)ハニフ1号形式客車として松本電気鉄道で廃車(現状の姿)
中央本線がかつて「甲武鉄道」という名の私鉄だったことは知っている。夏目漱石の小説などにたびたび登場するからだ。
僕はこの「甲武(こうぶ)」という響きが印象に残っていた。さしづめ僕がうっかり「国電」という言葉を使ったり、僕の祖母が「省電」と言うのに似ているだろう。今では使われなくなった言葉には、なぜか美しい響き(サウンド)がある。
そしてそれはサウンドだけではなく、必ずひとつのイメージを伴ってきた。
(国文社「近代日本史5巻(S41)」収録の甲武鉄道電車の写真)
子供の頃から好きだった祖父の本….今となっては大切な遺品でもある….に掲載されていたこの写真は、僕の中では40年以上にわたって「甲武鉄道」という言葉と直結してきた。あの橙色の中央線が、いつも満員の中央線が、かつては長閑なチンチン電車みたいな電車だったことが印象に残っていたからだろう。
それが眼前に「現存している(※1)」ということは腰が抜けるレベルの驚きだった。
だって1904年(明治37)といえば日露戦争が始まった頃の電車だから僕の祖父と年齢的には変わらない。日本海海戦で戦った三笠以外の戦艦が発見されたのと….もちろんそんなことはないのだけど……同じレベルの驚きだった。
(※1「現存している」とは専門的には正しくない言葉の使い方かもしれない。僕の中では白黒写真のものと同一車両という意味ではなく、同時代に同じ場所を走っていた似たような形状の車両、ぐらいの意味で使っている)
僕はこの車輛がたどってきた人生が気になったので、帰宅してから色々調べてみた。
おそらく鉄道が好きな方の間では有名な存在なんだろう。沢山のBlogなどでこの車輛が紹介されていた。
「デ963」は時代の流れとともに自力で動く部品….モーターやら運転席部分を取り外されて客車へと改造された。
1915年(大正4)にこの年開業したばかりの長野県の信濃鉄道(現JR大糸線の一部)に売却され、車両の一部を荷物室として改造され「ハニフ1号」となった。松本と信濃大町間を往復したものと思われる。
1922年(大正11)に筑摩電気鉄道(のち松本電気鉄道⇒アルピコ交通)に譲渡された。この年に開通したばかりの路線(松本駅から上高地への玄関口である島々駅間)を1948年(昭和23)まで走り続けた…..という具合だ。
僕には「ハニフ1号」が電気機関車に牽引されて梓川の河岸段丘沿いに広がる田園風景の中をのんびり走る風景がイメージできる。遠方には乗鞍岳を望むことができる鉄路を進んでゆく。次第に線路の両側の山々が迫ってくる直前に終点の島々駅がある(今は廃駅。手前の新島々駅が終点)。島々駅で降りたのは地元民だけじゃない。昭和初期の第一次上高地観光ブームや登山ブームの時には、大勢の登山客や観光客も降ろしたのだろう。荷物室はリュックサックで一杯で、登山案内人や旅館の連中が大声で客引きをする中を再び松本へと折り返して行ったのだろう。
「ハニフ1号」が引退したのは昭和23年だ。まだまだ戦後の物資不足は続いていた。本来なら廃車にされて資材として売却されてもおかしくはない所を、松本電気鉄道の英断で新村車庫に保管され続けてきたのは奇跡としか言いようがない。
そして2007年に鉄道博物館の開館とともに寄贈されている。
(「御料車」という本を買ってしまいました)
車輛を人間に喩えて愛情を注ぐマニアの気持ちが何となくわかった。
ここに新村車庫時代の「ハニフ1号」の記事があったので参考にさせて頂いた。
●「松本市の歴史を感じるもの「ハニフ1」号」
●「回想:ハニフ1号のこと」
●「ハニフ1号一般公開」
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