『浅草オペラ100年と二村定一リスペクト・ショー』
なぜか子供の頃から歴史が大好きだった。
親としては歴史家にでもなって欲しかったんだろう。当時国際情報社から『わたしたちの歴史』という本が月刊で出ていて、それを毎月取り寄せてくれた。
特に好きだったのが近代。明治後期から昭和戦前のあたりは何度も何度も読み返した。
といっても読むのは主にグラビアページばかり。もし文章をきちんと読むような子供だったら今頃は何かになっていたのかな。
なぜか浅草のいわゆる『十二階』を描いた『凌雲閣機絵双六』がツボで、それを穴があくほど見入っていた。12階は自分の中で「昔」を象徴する建物だった。
(実はまだ持ってたりして....)
『十二階』は浅草にあった日本初の高層建築で、この展望台に登れば東京中どころか関東平野が見渡せたのだという。
そういう前知識があったものだから、小学校6年生ぐらいのときに聞いた祖父(母方)の思い出話は今でもよく覚えている。
「おじいさんね、十二階に登ったことがあるよ。宮城から上京して大学に入ってすぐに登りに行った。映画や今でいうミュージカルみたいなお芝居も見たな。全部地震でなくなってしまったけどね」
(祖父のアルバムにあった写真。関東大震災で倒壊した大学校舎で撮影したもの。右から二人目が祖父)
僕がもう少し大きければこの話をもっと詳しく聞けたのだろうけど、元来真面目な祖父のことだ。あまり多くは語ってくれなかっただろう(当時ですら多くを語らないような雰囲気があった)。祖父が登楼した大正10年ごろの『十二階』はすでに観光施設としては陳腐化していた。周辺を私娼窟(ひと昔前に京急黄金町あたりにあったアレ)に囲まれていたようだ。十二階へ行くのは宮城県から上京したばかりの祖父のようなおのぼりさんであって、東京では「十二階に行く」ということ自体が何か別のことを意味しているような時代だったようだ。
さて前置きが長くなってしまったけど、祖父は浅草で十二階にも登ったし「カツドウ」も見れば、いわゆる「浅草オペラ」も見ていたということがわかる。
大正から昭和初期にかけての自由闊達でモダニズム溢れた時代、祖父が何を見て何を楽しんだのかは、残念ながらほとんど語り継がれることはなかった。
しかし1987年に生まれ(29歳!)の小針侑起(こばりゆうき)さんが、祖父に代って浅草オペラがどういうものだったかを語って下さるらしい。
さらには浅草オペラから生まれて昭和初期の「J-Pop」の寵児となった歌手二村定一についても語られるらしい。
そんなイベントが江戸東京博物館で開催されたので行ってきた。
題して『浅草オペラ100年と二村定一リスペクト・ショー』。
第一部は音楽史家で戦前の音楽を紹介するレーベル「ぐらもくらぶ」主宰の保利透さん、二村定一を語らせたらこの人という毛利眞人さん、音楽家の大谷能生さん、映画研究家の佐藤利明さん、弁士の片岡一郎さん、そして今回「あゝ浅草オペラ -写真でたどる魅惑のインチキ歌劇-」を出版される小針侑起さんたちによるトークショー。
浅草オペラというのは....と僕が書くのもおこがましいことだ。僕自身、音楽的な実像はほとんどわかりかねていた。
近年までは大正時代の音源で「浅草オペラ」の実像を伝えるモノと出会う機会は皆無に近かったからだ。
企画ものとしては、キングレコードから昭和39年にリリースされた「懐かしの浅草オペラ」、昭和40年「懐かしの浅草オペラ Vol.2」(KICS-8160/1)、そして昭和44年に東芝からリリースされた「エノケンおおいに歌う」(TOCT-6019/20)はそれぞれCD化されている。
(ニコ動に「ベアトリ姉ちゃん」があった。いつ無くなるかわからないけど)
これらは大正時代の録音ではないにせよ、数少ない浅草オペラを「現在」に伝える音源群だったけど、2年前に上述の方々の尽力によってリリースされた「六区風景 想ひ出の浅草(G10010/1)」、そして5月15日発売予定の「浅草オペラからお伽歌劇まで(G10026/27)」によって実像に触れられるようになった。なんともいい時代になったものだ。
(昭和時代にリリースされたものはこれらのCDに収録されている)
(これは涙ものの2タイトル、「浅草オペラ」は会場先行発売)
トークショーではまず「浅草オペラ」の成立について語られた。
1912(大正元)年、帝国劇場(丸の内)で組織された「歌劇部」がイタリアの振付師ローシーの指導の下でオペラを上演するが、商業的には失敗し、わずか4年で解散してしまう。紆余曲折があるものの「帝劇歌劇部(途中から洋劇部に改称)」から育った団員によって浅草でオペラの上演が始まる。1917年(大正6)年1月から上演された『女軍出征』が大成功となり、ここから浅草オペラの歴史が始まるのだそうだ。
『女軍出征』音源は前述の「六区風景 想ひ出の浅草」で初めて聞いたのだけど、ぶったまげたのはイギリスで第一次世界大戦中に大ヒットした『It’s A Long Way To Tipperary』を東京歌劇座員たちが英語詞で歌っていたことだ。発売は1918(大正7)年4月。それはレコーディングに慣れていないのか極めて酷いもので(笑)、演奏は頭がバラバラ、歌い手たちはお互いの顔色を伺いながら歌ってしまいました、リードボーカルを取ってくれる人がいません、歌詞を覚えてこなかった人がいます、ローシーさん御免なさい的なすさまじい状況を98年後の今も伝えている。
それでも僕はこの音源を愛してしまう。
僕の持っている『It’s A Long Way To Tipperary』の音源は1914(大正3)年11月23日にジョン・マコーマック(John McCormack)が録音したものなんだけど(『Nipper’s Greatest Hits – 1901-1920』収録。おいおい凄まじくプレミアついてるぞ!)、それから3年数か月後にまがりなりにも極東の小国日本でこの曲をレコーディングしているわけだ。いや上演開始時期を考えれば2年ちょっとでステージで歌っていた....日本人の新しいもの好き、洋物好き、そして音楽好きはこんな所にも出ている。とにかく何でも取り込んでしまおうという98年前の人たちの貪欲さには素直に感動せずにいられない。
(John McCormack “It’s A Long Way To Tipperary" 。これは余談だけどThe WhoのPete Townshendが1973年に宅録した小品"Piano 'Tipperary'"がまさにこの曲。アルバム『SCOOP』に収録)
さて話を戻そう。
「オペラ」と言っても「喜歌劇」とか「オペレッタ」と言われる喜劇と歌によるライトなものだった「浅草オペラ」。
最盛期には新聞広告を埋め尽くすほどの劇団が乱立したそうなのだけど、栄枯盛衰や統合解消は早いもので1922(大正10年)頃には『根岸大歌劇団』に絞られていったのだそうだ。
このあたりの人間関係はようやくこのイベントで知ることができた。紹介された根岸歌劇団の集合写真には二村定一、エノケンこと榎本健一のご両人が写っていた。両者が写っているものでは最古のもので大正12年の撮影と推定されるそうだ。さらに一緒に写っている柳田貞一という人は「エノケンの師匠」と紹介されていた。この人は1940(昭和15)年の「エノケンの孫悟空」では三蔵法師役で出演している。孫悟空役のエノケンから「お師匠さんお師匠さん」と呼ばれていたのは本当にそうだったんだなと妙に納得した。
想像を巡らすのは自由だ。もしかしたら僕の祖父が行ったのは根岸歌劇団のステージで、あるいはエノケンや二村定一を生で見たのかもしれない....
そんな祖父は決して裕福ではなかったけど戦後になって自分の大切な一人娘(今ではおばあさんとなってしまった僕の母)にピアノやバレエを習わせている。ちょうど九品仏に住んでいた頃の話だ。田舎に長く疎開していたせいですっかりお転婆娘となった彼女のピアノの先生は、奇しくも後にクレイジー・キャッツのメンバーとなる石橋エータローだった。そしてたまたま近所(自由が丘)にあったという理由で通ったバレエ教室の校長先生は石井漠だった。この人が帝国劇場歌劇部時代から浅草オペラまで活躍した人だったとは今回のトークショーで初めて知ったのだけど、それがかなり嬉しかった。
人間は単独では存在し得ない、常に誰かとの縁の中でのみ存在する。血縁というのがまさにそれで、突然変異的にこの世に発生したわけではない。
こうしたさりげない事実….石井獏が浅草オペラにいた….祖父が浅草オペラを見た….そういう事が、何か自分とその歴史的な現象をつなげてくれることが嬉しかったのだ。「行って良かった」そう思った。
そんなトークショーの中で面白かったもののひとつが「ペラゴロ」のエピソード。
「ペラゴロ」っていうのは熱狂的な浅草オペラのファン連中のことで、特定の劇団、特定の女優(俳優)に熱を入れる若者たちのことだったようだ。詳しくは小針さんの本を読めばわかるのだけど、「劇場での声援や幟の寄進のほか、浅草のカフェーにたむろしてオペラ論を戦わせ」たりしたのだという。爆笑したのは当時の浅草オペラ専門雑誌に投稿された「ファンの声」。これもまた本に書かれているけど必見だ。もう何がどうって「ペラゴロ」の行動パターンは、現代のご当地アイドルのファンの方々と全く変わりがないからだ。
今度ポニカロードのファンの方にお会いしたら、ぜひこの話をしてみようと思う。
(ご当地アイドル、ポニカロードのワンマンライブのためにファンが作った垂れ幕)
さてさて、ぜんぜん二部の「二村定一」に辿りつかない所で今回は筆を休めようと思う。
「ペラゴロ」が永遠の行動パターンなんだと分かったこと、自分のDNAにちょっとは浅草オペラがあるんだと感じたことが、第一部で最大の収穫だったかもしれない。
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