天安門事件から30年
人生の中で忘れられないテレビ番組に「天安門・激動の40年~ソールズベリーの中国~」というのがあります。
1988年9月23日にNHKで放映されたこの番組、当時ベータ版のビデオで録画したものを、業者さんにデジタル化してもらって今でも大切に持っています。
アメリカ人ジャーナリストのハリソン・E・ソールズベリーは、モスクワ特派員時代にスターリンと毛沢東の歴史的会見に接し、その後も北ベトナム、中国と取材を続け、周恩来に会見するなど中国国内に有力な人脈を持つジャーナリストでした。
NHKでは彼を解説者として、中国40年の権力闘争を描いた番組を制作したのです。
1989年6月、番組収録のためアメリカから中国入りしたソールベリーは、北京空港からタクシーで市内へと入ります。4月以来、天安門前広場で民主化を求める学生たちが座り込みデモを行っているのは知っていましたが、にもかかわらず北京は平穏で、どこにも兵隊の姿は見当たりません。「緊迫した雰囲気は感じられなかった」と、彼は語っています。彼は北京飯店に無事チェックインを済ませます。
そして6月4日午前4時、ただならぬ雰囲気に目を覚ました彼とカメラクルーが、ホテルの窓から目撃したのは、広場に集まる群衆の大きな波、そして 中国人民解放軍 による発砲、逃げまどう群衆の姿でした。
ソールズベリーとNHKのカメラクルーは「天安門事件」の歴史的瞬間に遭遇したのです。
事件から遡ること8か月、1988年9月のことです。
僕は大阪南港から「鑑真号」に乗って上海へと向かいました。時代はちょうど学生が海外旅行へ行き始めた頃でした。友人たちがアメリカやヨーロッパへと旅するようになった時、僕が選んだのは中華人民共和国でした。
古代の中国史が好きだったというのもあるのですが、どうせ行くのなら真逆の政治体制の国に行った方が面白ろかろうとこの国を選んだのです。もちろん大阪から上海まで2万円でお釣りが来るという運賃も魅力的でした。
1元(人民元)が40円弱の時代でしたから、行ってしまえば、それほど旅には困りません。のんびりとゆっくりとした旅で上海、杭州、そして北京へたどりついたのは、ちょうど国慶節(10月1日)の頃でした。
ここに来る間、どの地でも現地の中国人と仲良くなりました。
彼らの半数は外国人だけが使える「兌換元」との闇交換を目当てに、我々日本人に近づいてきたのですが、実はそれだけではありませんでした。彼らの中には自分たちの不満を我々外国人にぶつけたくて、接触してくる人も多かったのです。
彼らの不満とは何だったか....現代中国史にはあまり詳しくなかった自分にとって意外だったのは、彼らが口にする、鄧小平に対する不平不満でした。時の最高実力者です。
鄧小平といえば、改革開放政策の推進者というイメージがありました。 実際は行き過ぎた改革を修正しようとする側に、すでに彼はいたのです。
私が若くて外国人という事もあり、彼らは話しやすいと思ったんでしょう。とにかく行く先々で「鄧小平はしょせん小者だ」とか「彼は我々の目の上のたんこぶだ」とか、そういう事を言われるわけです。他人の家に上がったら、家長の悪口を言われる。そういうことです。
僕は僕で若いものだから、そういう話に乗ってゆく。
上海で30代の中国人にそう言われた時、僕は無責任にもこう尋ねてみました。
「だったら"革命"を起こしたらいいじゃないですか?」
そうしたら、その中国人は真顔で答えました。
「いや、そんな必要はない」。
彼のその言葉は、恐れるとかではないんです。
「なぜですか?」と尋ねたら、彼はこう答えました。
「あなた、考えてもごらんなさい、昔から中国の王朝は何百年も続いて、そして倒れてきたんです。ところがこの国はまだ40年しか経っていないんですよ」
はい、それはわかるのですが、彼がその次に何と言おうとしているのか、そこが予測できない。
「だから我々は思っています。"いつかはこの国は倒れる。それまでの我慢だ"って」
ひゃああ、これには驚きました。
いやあんた、何百年も待つんかーいと思ったのは言うまでもありません。
途方もない時間を我慢する国民性だなぁとびっくりしたものです。
さて、今では状況は変わっていると思いますが、当時の中国はあまりの不便さと、あまりのいい加減さに驚きの連続でした。 なんでもかんでも行列から始まります。バスに乗るのも行列、列車の切符を買うにも行列 です。
「サービス」なんて発想はない。博物館で入場券を買うのにお金を出すと、券をほおり投げてきます。ホテルへ行って「空き室はあるか?」と尋ねれば「没有(メイヨー)」と言われる。空き部屋があっても自分の仕事が増えるから「ない」と言ってくるんですね。
でも、そんな中でしたたかに生きる人民の生命力には圧倒されたものです。
杭州でのある中国人との会話。
僕が「上海では列車の切符を買うにも大行列でした。あれって切符の自動販売機があれば、あんなに行列しないですむのではないでしょうか?」
今は知りませんが、当時は列車の切符というものは窓口で係員から買うものだったんです。
そうしたら、彼が真顔で言うんです。
「なぜ?そんな必要はないでしょう」
「は?」
「だって、この国には十億人もの人がいるんですよ。人が余っているんです。自動販売機なんて必要ない」。
もう、なんかスケールが大きいんですね。中国三千年の悠久の歴史というか何というか...
それだけに、8か月後に起こった天安門事件は「起こるべくして起こった」と思う反面、「なぜ北京の学生たちは急激に行動を起こしたんだろう?」とも思ったものです。
上海と杭州あたりとは違って、都市部の学生は急激に世を変えようと思うものなのでしょうか。そして、その運動は全国へ波及しようとしていました。その矢先に軍は発砲したのです。
未だに天安門事件の全貌は定かではありません。死者319人(中国政府公式発表)から10,000人(イギリス機密電)まで幅が広いのです。戦車や装甲車が学生たちを轢き殺したのは間違いないでしょう。
直近の北京飯店から現場を俯瞰できる立場にいたソールズベリーが見たものが真実に近かったと思うのですが、彼もNHKのクルーも当局の刺激を避けたのでしょう。あまり多くを語ろうとはしていません。
ただ、40年前に人民を開放した軍が、今度は人民を弾圧する側に回った。このことをソールズベリーは、感慨をもって語っています。
「反動と修正」、これはどんな世界の歴史でも一緒でしょう。その両方を行きつ戻りつしながら、社会は進化してゆくものです。そして、その「反動」があるだけ、まだその国は恵まれているのかもしれません。
「反動」がない国は、もはや進化を終えているわけですから。
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