福井陸軍大演習の昭和天皇(3) -宮廷列車は福井へ-

歴史の切れ端

福井陸軍大演習の昭和天皇(2)-撮影場所の特定-」の続き。

昭和8年福井大演習の昭和天皇 藤島神社行幸
(前回の画像をモノクロにして補正してみました)

2014年9月は、自分の中では「昭和のひと区切り」を感じさせる月だった。
そごうの水島元会長の死、イオンの店舗再編による「ダイエー」ブランド消滅、SONYの予想外の赤字拡大は「バブル経済の時代」の余韻すら打ち切る出来事だった。朝日新聞による従軍慰安婦強制連行虚報に対する謝罪は、戦後の日本に流れていた大きな思想の片翼が吹き飛んだかのような印象を受けた。さらに僕にとっては「満州帝国」を象徴する最後の一人だった李香蘭も亡くなってしまった。そして「昭和天皇実録」の公開は、自分の体感している以上に昭和が遠い昔の事になってしまったことを感じさせてくれた。

そういった一連の出来事が、5年のあいだ後回しにしてきた祖父のアルバムをデジタル化するという気持ちにさせたのかもしれない。写真を高解像度でスキャンすると、見えないものが見えてくる。見えないものが見えてくると謎も沢山増えてくる。素人の語る歴史はいつも、謎と謎解きのおいかけっこだ。

【昭和8年 福井県陸軍特別大演習】
さて、前回の記事でこの写真が昭和8年に行われた「福井県陸軍特別大演習」の際に福井の藤島神社で撮影されたものであることがわかった。あとは図書館で調べればいい。「図書館」といっても足を運ばなくて済む場合だってある。国会図書館の貴重な蔵書をWEB上で閲覧できる「近代デジタルライブラリ」がそれだ。

これは今回の「調べもの」をしていてわかったことだけど、毎年行われていた「陸軍特別大演習と行幸」に関しては、毎回地方レベルで詳細な記録が作られていたようだ。たとえば昭和8年の福井県陸軍特別大演習では、
昭和八年陸軍特別大演習並地方行幸福井県記録
A.「昭和八年陸軍特別大演習並地方行幸福井県記録(福井県編纂)」
B.「陸軍特別大演習記念写真帖(福井県編纂)」
C.「昭和8年陸軍特別大演習並地方行幸福井市記録(福井市編纂)」
の3冊が確認できた。

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(「福井県記録」に記された「宮廷列車」の運行予定。予定どおりに全てが行われたことは言うまでもない。日本の鉄道の正確さは、こういう所から経験を積んだのかもしれない)

昭和8年10月22日午前8時ちょうど、昭和天皇を乗せた「宮廷列車(いわゆるお召し列車)」は東京駅を出発した。丹那トンネルが開通するのは翌年のことだから、国府津駅からは現在の御殿場線に入る。米原到着は午後3時20分。本来福井へ向かうのであれば、ここから北陸本線に入るはずだが、列車はそのまま京都へと向かう。午後4時25分に京都着。この日天皇は京都御所に宿泊した。当時すでに特急「燕」が東京大阪間を8時間20分で結んでいたことを考えれば、所要時間8時間25分は決して特急運転ではない。
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(この時使用された2代目「1号御料車」=wikipediaより)

翌23日は福井県への移動日だ。午前11時55分に京都駅を出発した列車は、二十一発の号砲の鳴り響く中、午後2時35分に福井駅に到着した。天皇が宿泊する「大本営」は福井県庁舎に設けられた。なお「大本営」というのはあくまでも演習期間の名称で、演習が終了した後の行幸期間は「行在所(あんざいしょ)」と呼ばれた。

建物を天皇の宿泊に提供するため、福井県庁はすでに8月上旬にバラック建ての仮庁舎へと移転していた。本来は福井中学校に移転する予定だったが6月に火災によって焼失したため、突貫工事で建てられた建物だった。

(「大本営」となった福井県庁舎)

ダイレクトに福井に向かわなかった理由は不明だ。昭和5年の岡山特別大演習の際は6時間50分かけて名古屋着、名古屋偕行社に一泊したのち、所用時間7時間00分で岡山駅に到着している。こういうことまで調べていったら、きっと面白いのだろうし、読めば読むほど「特別大演習学」の虜になりそうな自分がいるけど、とりあえずはこの話の本筋じゃないので省略。

すでに福井県では6月19日に福井県知事大達茂雄により告諭が発せられている。「告げて諭す」の文字どおり、天皇を迎えるにあたっての県民の心構えを「告げた」ものなのだけど、これがなかなか面白い。
「剛健なる国民精神を作興し」というところから始まるのだけど「国際連盟離脱の詔書を拝して帝国の使命を自覚しよう」というあたりは、3月27日に国際連盟を脱退したばかりの生々しさがある。また「社会生活の円満を期して(県民同士の)紛争は避けよう」「衛生保健に注意し、伝染病の予防に努めよう」「災害の防止に努めよう」とも記されている。

戦後「天皇は箒である」と言われたことがある。天皇が訪れると、その地方は何もかもが清められてしまうという意味だ。実際のところ知事の告諭どおり福井県は大いに清められたようだ。主要道路は整備され、狂犬病予防措置はもちろんのこと、伝染病対策にも多額の予算がかけられた。工場内の危険予防措置、社会運動団体の観察取締、思想要注意人物の観察取締、広告や看板貼紙の取締、不良少年の取締、浮浪者の観察取締など実に多岐にわたって「隠さなければいけないもの」の選別が行われている。

話を戻す。10月24~26日、昭和天皇は福井県各所で演習を統監、27日は華やかに観兵式が行われ、これで特別大演習のスケジュールは終了した。

そして翌28日が「福井市行幸」だった。
この日、福井輸出絹織物検査所、福井師範学校、福井地方裁判所、福井工業高等学校などを視察した天皇だったが、そのスケジュールの最初に訪れたのが、藤島神社だった。


福井陸軍大演習の昭和天皇(4) -松尾伝蔵、岡田啓介そして鈴木貫太郎-
へ続く。

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