風船爆弾の放球台跡(茨城県)
新年早々、地震だ事故だ火災だと続いています。どうも自分は感情移入しやすい性分ですので、心から「おめでとう」と言える心境ではなくなってしまいましたが本年もこの辺境blogをよろしくお願い致します。
(画像は山形県上山市にある超高層マンション「スカイタワー41」です)
年末年始は茨城、福島と山形に行っていました。渋滞を避けるために東関道で潮来に出て、ひたすら国道51号、245号、6号を北上しました。日立市内だけ常磐道を利用しましたが、快適な道でした。
この日はいわき市に泊まる予定でしたが、ふとGoogle Mapを見ると「風船爆弾の放球台跡」なる場所があるではないですか。
「風船爆弾 (Balloon Bombs)」というのは太平洋戦争中に日本軍が開発した秘密兵器です。形状からすると「気球爆弾」と呼ぶのが正しいでしょう(当時は「ふ号兵器」という符丁を使っていました)。アドバルーンの形状で爆弾を装着しており、偏西風を利用して太平洋を横断し、時限爆弾を投下するものでした。
この爆弾が有楽町日劇や浅草国際劇場や両国国技館で作られていた。というのは聞いた事があるのですが、それを実際にどこから飛ばしていたのかは知りませんでした。場所は北茨城市平潟町。岡倉天心の記念館と六角堂(東日本大震災後に再建された)で有名な「五浦(いづら)」のすぐそばです。
ところがどっこい。注意しながら車を進めますが、特に案内板があるわけでもなく、あっと言う間にGoogleに表示されているポイントを通り過ぎてしまいました。そこでUターンして引き返し、辛うじて駐車できる場所に停めます。
資材置き場の左手(北西)に何やら人が通れる道があります。多分これだろうと勇気を奮って進みます。
数段下りの石段があって、その先に...ありました。
高さ1m弱に土を盛り上げた上に、直径5mぐらいの円形にコンクリートが打たれていました。
まるで相撲の土俵のようです。
コンクリートがひび割れてそこから雑草が侵食しています。
円の両端二か所には、このような形状の凹みがあります。
おそらくは充填した水素で浮き上がった「気球」を固定させる装置があったのでしょう。
解説板もあります。
「戦跡と平和を語り継ぐまちづくりシンポジウム実行委員会」が設置した解説板はイラストと箇条書きとで、実にわかりやすい内容でした。
丸ごと引用させて頂きます。
「風船爆弾とは」
アメリカ本土を無人で攻撃した秘密兵器
放球時の戦況
- 昭和16年12月 日米開戦ハワイ真珠湾奇襲
- 17年4月 米軍、東京・名古屋初空襲
- 17年6月 ミッドウェー海戦大敗
- 19年6月 神風特攻隊出撃
「風船爆弾」による米国本土攻撃開始 - 1945年8月 広島・長崎原爆投下敗戦へ
作戦の目的
米本土攻撃により戦況を変え講和に持ち込む
天皇制維持の交渉に
ペスト菌など細菌爆弾の搭載を恐れた米国
放球と着弾
約一万発放球 米国へ約300発着弾
((放球地))①大津大隊(茨城)②勿来(福島)③一宮(千葉)
放球結果
- 米国被害 民間人6人死亡 山林火災発生
- 細菌兵器の飛来を恐れた米国
全米に報道管制を、日本に情報入らず→失敗 - 米国海岸で米空軍により多くを撃ち落された
摘要
- 気球本体和紙を3-5枚こんにゃく糊で貼合
・輸入に頼らない素材安価で軽量 - 偏西風(ジェット気流)高度1万メートル付近
・風速時速250kmを利用
・太平洋9000kmを2昼夜で横断 - 自動高度維持装置の開発 気圧計原理応用
高度上空、昼夜の寒暖差による気球上下を調整 - 水素ガス 米軍空襲で水素ガスの供給が困難
大津基地のみ水素ガス製造装置あり
共同開発
陸軍登戸研究所(登戸)にて、秘密兵器として研究開発
国家予算
国家予算の10% 巨額の投資
(戦艦「大和」「武蔵」は3%台)
以上です。
「国家予算の10%」という表示には「????」と思いました。
この「放球台」は周辺に18か所あったそうで、水素ガス発生装置や諸施設をあわせて「大津基地」と呼ばれていました。
タイムリーですが、昨年12月23日に大津基地の資料が大量に発見されたそうです。NHKの「風船爆弾 太平洋戦争で旧日本軍開発の兵器 茨城大津基地の資料見つかる」に詳しいです。
当初、アメリカではこの気球が日本から飛ばされたものだという事を信じていませんでした。
ドイツ人捕虜収容所か、日系アメリカ人収容所で極秘に作られたものか、近海の日本軍潜水艦から放球されたものだと信じていました。
ところが風船爆弾のパラストの砂の組成をアメリカ地質調査所の軍事地質学セクションが調べたところ、宮城県塩釜市か千葉県一宮町の砂と類似しているとの結果が出たのです。
1945年1月4日、米軍検閲局は新聞社と放送局にこの気球について一切報道をしないように要請しました。
この報道管制は功を奏したようです。1944年11月1,200発、12月1,200発、1945年1月2,000発、2月2,500発、3月2,500発、4月400発と風船爆弾を放球した日本では、水素も紙も枯渇しつつある中で「一定の効果がみられないので中止」と判断せざるを得なかったのです。
飛行中の風船爆弾をアメリカ海軍が撮影した映像。爆弾の解説もあります。
さて、1945年5月5日の事です。オレゴン州ブライの「C&MA教会」の牧師だったアーチー・ミッチェルは、妊娠5か月の妻と日曜学校の子供たち5人と共に、車でフリーモント=ウィンマ国有林にあるギアハート山にピクニックに出かけました。
ミッチェルがレオナルド川近くに駐車した車から弁当を取り出している間、妻と学校の子供たちは周辺を散策し始めました。
まもなくして夫人が森林の遠方から「妙なものを見つけた。見に来て!」と大声で呼んできました。
ミッチェルの近くには整地工事中の作業員たちもいて、彼らは遠目に子供たちが円を作って「何か」を眺めているのを目撃しています。
程なくして誰かが「これは風船だ」と言う声も聞こえてきました。
ミッチェルは西海岸で爆発物を積んだ風船が目撃されているという話を聞いていたので「いま行くから触らないで」と叫びましたが、その直後「何か」は爆発したのです。
身重の妻と5人の生徒たちは風船爆弾の犠牲者となりました。6名は第二次世界大戦中にアメリカ本土で犠牲となった唯一の例となりました。日本からの放球は1945年4月が最後であった事から、その頃に到着した風船爆弾を子供たちが蹴るか何かして爆発したものと軍調査団は結論づけました。
あとは余談です。
妻を亡くしたミッチェル牧師は2年後の1947年に再婚した妻と共にベトナム(当時は仏領インドシナ)へと渡ります。目的はベトナム人への宣教、そして新しい妻は犠牲者となった2名の生徒の実姉でした。
1950年、爆発地を所有していたウェアホイザー木材会社が現場に記念碑を建てました。
「ミッチェル・モニュメント [pdf]」と呼ばれるその記念碑には、犠牲者の名前と「第二次世界大戦中、アメリカ大陸で敵の行動により死者が出た唯一の場所」と刻まれています。
ミッチェル牧師のベトナム滞在は5年を一期とするものでしたが、彼はそれを2期10年を務め、2年間の帰国をした後、再び夫婦で渡りました。
1962年5月30日の事です。ミッチェル牧師がいたハンセン病療養所を南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が襲撃し、ミッチェルほか数名のスタッフを拉致しました。「妻と子供を連れていかないのであれば、私は全面的に君たちに協力する」と、彼は言ったそうです。妻と子供たちは救われましたが、彼が戻ってくることはありませんでした。
さて、この「放球地」近くの海岸に「わすれじ平和の碑(風船爆弾放流地跡)」という石碑があります。
この海の先にはアメリカがあります。
実は今年の4月から5月にかけて、僕は30年ぶりにアメリカ西海岸へ行く予定です。
その「行きたい場所リスト」に入れていたのが「ミッチェル・モニュメント」でした。
行動拠点となるサンフランシスコからかなり離れているので行けるかどうかわかりませんが、放球地へ行った以上は着弾地へも行く必要があるんじゃないかと、妙な義務感にとらわれています。
参考サイト
- The Two Tragedies of Archie Mitchell by FOREST HISTORY SOCIETY
- Japan’s World War II Balloon Bomb Attacks on North America [pdf]
- 風船爆弾 (wikipedia)
- Fu-Go balloon bomb (Wikipedia)
- Archie E. Mitchell (Wikipedia)
- The Deadly Balloon Bombs of Imperial Japan by Warware History Network
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