戦艦武蔵が生まれた場所-長崎造船所第二船台-

管理人のたわごと

おかげ様で子供の連載マンガ第一巻は書店で売れているらしい。
お互い自立して別の人生を歩んでいるのだから知ったことではないけど、子供の作品が世間様から評価が高いというのは父として純粋に嬉しいものだ。

知人で作品を読んだ方からは「僕と同じ匂いがする」というような事を言われた。
子供は親の育んだ文化の中で生まれ、その文化を足掛かりとして育ち、自分の文化に繋いでゆくものだ。突然変異などありえない。もし彼女の作品に、この辺境blogと似た匂いがするのであれば、これほど嬉しい事はない。

さて、そんな第一巻が発売された同じ頃、僕は長崎市にいた。

長崎市
稲佐山の中腹から長崎港方面

初めての九州旅行でまず行きたかったのが長崎市で、一番見たかったのは原爆の遺構と戦艦武蔵が生まれた場所だった。大和と並んで世界最大の軍艦だった武蔵。大和が呉の海軍工廠で建造されたのに対して、武蔵は長崎の三菱重工長崎造船所で建造されている。

きっかけとなった吉村昭の『戦艦武蔵』を読んだのは、もう40年も前の事だ。
それまでも戦記文学は随分読んできたのだけど『戦艦武蔵』は衝撃だった。戦いの記録ではなく、その建艦プロセスを主軸に据えた作品だったからだ。

フェンスの向こうに見える錆びた鉄骨構造物が、戦艦武蔵を生んだ第二船台の現存ガントリークレーン

戦艦武蔵を建造した三菱重工長崎造船所の第二船台は今も現存する。建造時のガントリークレーンも一部だけ残っている。ガントリークレーンというのは門型のクレーンで、港湾で荷役のためにレール自走するタイプのものがよく見られる。長崎造船所のそれは船台に跨る形で鉄骨の屋根が覆っており、そこから吊り下げられたクレーンが移動しながら船の各所に資材を降ろしていたようだ。

昭和8年の秋のことだ。将来の造船需要に対応するため第二船台にガントリークレーンを建設する事が検討された際、造船所では念のため海軍艦政本部に相談している。本部でも将来の主力艦や望まれるガントリークレーンの寸法について検討がなされ、三菱重工にフィードバックされている。「今にして思考するにこれが実に本艦(武蔵)に対する当所として交渉の第一歩と言い得る」と「三菱長崎造船所史(1951)」にはそう書かれている。第二船台ガントリークレーンは昭和9年10月15日に起工し、昭和12年3月31日に完成した。朱色に塗装された巨大カントリクレーンは圧倒的な存在感を長崎市民に見せてけていた事だろう。

造船最盛期にはすべての船台がガントリークレーンで覆われていたようだが、現存するのは武蔵を建造した第二船台の山側の一部だけ。ここだ。

Googleで見る限り錆びついているように見えるし、建物の上に残存しているので、もはやガントリークレーンの用をなしていないようにも思えた。

さて、吉村昭の「戦艦武蔵」には、こうある。

長崎港は、丁度すり鉢の底のような所に位置している。稲佐山、金比羅山、風頭山などの山々に三方を囲まれて、市街の家並は、海岸線から山々の傾斜にせり上るようにぎっしりと軒をつらねている。長崎の風光が秀れているということことは、一寸した高みからはむろんのこと、市街地からも美しい港を一望の下に見下すことができるからだ。その海岸に沿って造船所はひろがっている。海面に突き出ている第二船台で建造される第二号艦は、すべての市民の眼にさらされてしまうことはまちがいなかった。

吉村昭:戦艦武蔵(新潮文庫)

「市民の眼にさらされる」。
長崎を訪れると、それが実感できた。湾に向かって山々が迫り、平坦な場所は限られている。山の標高は稲佐山(標高333m)、金毘羅山(366m)、鍋冠山(169m)、風頭山(151m)という具合に、都市部と近接した山としては比較的高いものが多い。そして家々が山腹を駆け上がるかのように建てられている。横浜や横須賀にもこのような風景はないわけではないが、標高が高いだけになお一層ダイナミックだ。そしてそこを縫うように急坂とヘアピンカーブが連続している。ある長崎の方と話をしたのだけど「(坂が多すぎて)長崎の人は自転車に乗らないんですよ」と言われた。

朝、稲佐山山麓のホテル駐車場から見たのはThe Kinksの「You Really Got Me」を彷彿させる家々の「脳天逆落とし」の光景だった。

長崎脳天逆落とし その1
長崎脳天逆落としその2

造船所と海軍が最も気にしたのが、この風景の中で極秘に「武蔵(当時は「第二号艦」)」を建造する事だった。

「三菱長崎造船所史(続編)」では戦艦武蔵の建造について一章を割いているが、特に「機密保持について特に実施した事項」として以下のように列記しているので、地図と解説を加えてみた。
(地図番号と列記項目の番号が一致しているわけではない)。

  1. 船台における建造中の遮蔽
    第2船台の下部を99,500㎡のトタン板で覆い隠し、ガントリークレーン上部より845,000㎡の棕櫚簾を展張する事で船台そのものを遮蔽した。
  2. 監視所の設置
    第二船台、向島岸壁(武蔵の艤装が行われた)、水ノ浦海軍監督官事務所に監視所を設け、海軍から貸与された12㎝双眼鏡によって対岸や背後の山なの住人や歩行者を監視した。
  3. 香港上海長崎銀行の買収
    香港上海銀行は対岸の松ヶ枝町にあり、ちょうど造船所が望める建物だったが、昭和6年から営業を終了していたため、昭和15年に佐世保海軍鎮守府が買収し、長崎県警に譲渡した。建物は梅香崎警察署庁舎として使用された。
  4. 英人ハリス邸の買収
    香港上海銀行の付属邸宅で、現在の長崎気象台付近。買収後は海軍監督会議所という名目で海軍関係者の宿泊施設として使用された。
  5. 市営倉庫の建設
    大浦町にある英国領事館(建物現存)と米国領事館からは造船所が丸見えだったため、高さ14mの市営倉庫を建設し、遮蔽する事に成功した。
  6. 警戒隊の編成
    憲兵および警察官に加えて、佐世保海軍兵団より警戒隊を派遣し、市内の警備警戒にあたらせた。
関係ないけどグラバー園に移築された「旧三菱第2ドッグハウス」。船舶の入渠時に船員の宿舎として使用された。

最初に訪れたのはグラバー園だった。わざわざ坂道を登らなくても「スカイロード」とエレベーターで最高所のゲートから入場できる。最も標高の高い場所にある「旧三菱第2ドッグハウス」前から戦艦武蔵が生まれた場所を眺めてみたら...

グラバー園からみた長崎造船所

おーおー見えた見えた!「聖地巡礼」ってこういう事かと感激した。

望遠レンズを使って第二船台のガントリークレーンだけを撮影してみた。
錆が下の建物の屋根を汚しているところからすると、もはやクレーンとしては機能を停止しているようだ。

戦艦武蔵建造に使われた第二船台のガントリークレーン。

進水式を終えた武蔵の艤装工事を行った向島艤装岸壁もよく見える。

向島艤装岸壁

ちなみ向島艤装岸壁の向こう側には「No.3 Dock」と書かれた乾(ドライ)ドッグが見える。武蔵を建造した第二船台とは違って注排水が可能なドッグだ。1905年に竣工したこの「第三船渠」は「世界遺産・明治日本の産業革命遺産」のひとつに選ばれている。

第三船渠

極秘に戦艦を建造するのであれば、山をくり抜いて作られたこの第三船渠ほど秘匿に適したドッグはない。ところが、武蔵が建造された昭和13年当時の第三船渠の大きさは「長さ222.2m、幅27m、深さ12.3m、建造能力3万重量トン (「世界遺産オンラインガイド」)」であったそうだ(のちに拡張)。1905年の完成時は東洋一のドッグだった。しかし武蔵はこれを遥かに上回る全長263m、幅38.9m、65,000トンの戦艦だった。

さて、グラバー園のシンボリックな建物である「グラバー邸」もまた、昭和14年に長崎造船所によって買収されたものだ。

グラバー邸

グラバー邸は、安政六年に長崎へやってきたイギリス人トマス・ブレーク・グラバーの住みついた邸で、グラバーは、幕末維新にかけて薩・長・土・肥の勤皇派の諸藩とむすび大量に武器弾薬を売りこんで財をなした、いわば死の商人であった。その後、外国の機械、技術を導入して、明治開化期の商人として活躍をしたが、今では、日本人妻との間に生れたトムが、倉場富三郎と名のって老いの身をその邸の中にひそませていた。

吉村昭:戦艦武蔵(新潮文庫)

造船所は市を介して交渉し、グラバー邸を買収し、名目上は所員のクラブとして、実際は周辺を巡察する憲兵の詰所として利用した。この建物は昭和32年に造船所の創業100周年を記念して長崎市に寄付され、現在に至っている。

改めて「グラバー邸視点」で眺めてみると、買収されるのは当然の光景が広がっていた。

グラバー邸からみた長崎造船所

武蔵、いや「第二号艦」の建造ほど長崎市民にとっては迷惑な話だったに違いない。
誰もが棕櫚簾の向こう側で何か重要な船舶が建造されている事に気づいていた。しかし「それ」を眺めたり話題にしようものならば、たちまち憲兵が戸口にやってくる。「それ」は長崎市民の間では禁句でありタブーであった。人々は「それ」を「オバケ」「魔物」と呼んでいたそうだ。

さて、引き続き「オバケ」探索を続けよう。
稲佐山のホテルに宿泊し、翌日はまず造船所側からガントリークレーンにアプローチする。事前にストリートビューで「ここなら撮れそうだ」というポイントをある程度決め打ちをしておいたのがよかった。

そうしたら、いきなりこれが撮れた。

戦艦武蔵を生んだ長崎造船所第二船台の現存ガントリークレーン

このガントリークレーンに棕櫚簾を吊り下げて、武蔵を建造していた事を想像してみたら感無量となった。工場の建物や背後にみえる女神大橋の橋脚と比較してみれば、おのずから武蔵の巨大さも想像できた。

1938年3月29日、戦艦武蔵はこの場所で起工された。1940年11月1日、長崎湾が満潮となるタイミングを見計らって進水式を行った。日中戦争が始まるまで、長崎市民にとって海軍艦艇の進水式は、市を挙げての盛大なお祭りだった。対岸の山々にまで観覧席が設けられ、ラジオでは生中継が行われ、人々は湾に滑り込む船の威容を楽しんだのだった。

しかし武蔵の進水式当日は全く様相を異にしていた。海軍、憲兵隊、そして警察署合同による「防空演習日」として、市民の外出は規制されたのだ。

港を見下すことのできる高台はむろんのこと、海岸線一帯には、人垣のように警戒隊・憲兵・警察署員を配置して市民の監視に当らせ、それら警戒に当る者たちも、進水の定刻には、海面に背を向けて艦の姿を眼にしないように命令を受けていた。
 殊に、海岸に並ぶ家々には、強引な方法がとられることになっていた。家族は、一人残らず家に閉じこめ、その上雨戸をたてさせ、窓にはカーテンを引かせる。そして、警戒隊員を一戸に数名ずつ配置させて、住民たちを厳重に監視させる方法も予定されていた。

吉村昭:戦艦武蔵(新潮文庫)

昭和天皇の名代として軍令部総長伏見宮博恭王、そして及川古志郎海軍大臣らが列席する中、極秘裏に進水式が挙行された。これだけの巨大戦艦を船台から滑らせて進水させるというのは世界的にみても前例がない未曾有のプロジェクトであったが、戦艦武蔵は無事に長崎湾に滑り込んだ。

進水の際、武蔵の左右には6本ずつ合計570トンの鎖を取り付けられた。狭い長崎湾の対岸に激突しないために物理的なブレーキが必要だったのだ。しかし巨大戦艦の進水によって長崎湾の水位は急激に上昇した。対岸の浪ノ平町には1m20cmの高波が襲いかかり、さらに浦上川、大浦川、中島川など主要河川を遡上した高波は多くの家屋を浸水させたという。

さらに最もガントリークレーンに近い撮影地点にも行ってみた。

ガントリークレーンの圧倒的な迫力は感じられたが、前の撮影地点ほど美しくは撮れなかったと思う。

この日は、島原半島まで行くスケジュールだったが、市街地を出る前にもう一か所寄るべき撮影ポイントがあった。長崎湾口を女神大橋で渡った対岸の鍋冠山の展望台だ。戦時中は高射砲第134連隊の電測分隊が置かれていたらしい。ここならば第二船台が真正面から撮影できるのではないか?

離合も困難な山道を抜けてたどり着いた展望台。眼前に望み通りの風景が広がっていた。

鍋冠山から撮影した長崎造船所。左から二番目が第二船台。奥の錆びた鉄骨が現存ガントリークレーン。

憲兵に捕まるレベルで撮影できた。

対岸の鍋冠山から撮影した第二船台。

進水式を終えた武蔵は、向島艤装岸壁で1年半にわたる艤装工事を行い、1942年8月5日に海軍に引き渡された。
しかし戦争は二次元から3次元の時代へと変わっていた。大艦巨砲主義の思想の賜物である軍艦同士による艦隊決戦の時代ではなく、航空戦闘力を主兵とする時代へと変貌を遂げていた。

日本海軍は真珠湾攻撃とマレー沖海戦で自らそれを実証したにも関わらず、「不沈艦」大和と武蔵に過剰な期待を抱いていていた。

Berth No.2は「第二船台」の意味

皮肉な事に、2か月前のミッドウェー海戦でそれがために致命的な打撃を受けた中で、武蔵は海軍の戦力に加えられた。大和型戦艦の3番艦「信濃」はミッドウェーの敗戦を契機に航空母艦に計画変更され、4番艦に至っては建造中止となった。計画時にはともかく、武蔵は生まれた時から悲劇を背負っていた。

沈没しつつある武蔵
沈没しつつある武蔵 (wikipediaより)

1944年10月24日、100機を越えるアメリカ海軍機から魚雷20本、爆弾17発、至近弾18発(「軍艦武蔵戦闘詳報」による)という攻撃を受けた武蔵はシブヤン海に沈んだ。すでに海軍の航空兵力は失われており、武蔵を援護する航空機は一機もなかった。

鍋冠山からみた女神大橋
鍋冠山からみた女神大橋

こんな事を思った。テクノロジーの進化や設計思想の進化には際限がない。音楽メディアもアナログ盤からCDへ、そしてサブスクで聴ける時代となった。htmlで記述する時代から始めたこのBlogも今はWorspressで管理している。最近はAIで段落構成(文章そのものではない)をチェックできるようになった。いや、Blogなんか書かずにnoteで書いた方が利益になるかもしれない。漫画だってそうだ。机に座って描く時代から、PCとペンタブで描く時代を過ぎ、寝転がりながらiPad Proで描く時代となった。

それでも最上の技術や芸術は、常にその時代時代に寄り添い、時代時代の空気を思いっきり吸い込みながらその最先端を目指して生まれてきている。我々はそれらに触れる時、ついつい懐古や郷愁の念で見てしまいがちだ。しかし本当に大切なのはその時代時代の空気を体に吸い込んで、同時代人の感覚で感じて触れる事なんだと。

管理人のたわごと