下山事件 ガリ版資料展示

「足立区の郷土博物館で下山事件の資料を展示していると朝日新聞に載っていた」という情報を「下山事件資料館」へ来てくださっているみなさんからメールで教えて頂いた。この場を借りて御礼申し上げます。

さっそく記事のコピーをとりよせてみる。1月22日の朝刊だ。「下山事件 ガリ版資料展示 総裁夫人の供述も 足立・郷土博物館」とある。それによれば捜査関係資料と思われるガリ版刷り6点と、事件直後に発行された事件関連の雑誌8点が公開されているらしい。こうした一連の資料を2005年に郷土博物館が古本屋から購入したのだそうだ。

そんなわけで2月19日にようやく行ってきた。

ここには3年前に事件現場の地勢を理解するために訪れたことがある。その際、郷土資料室で「下山事件」と尋ねたら怪訝な表情をされたことを今でも覚えている。その時は「そうか足立区ではタブーなのかな」と思ったのものだ。そうしたタブーをあえて郷土史の一断片として扱った博物館の判断は素晴らしいと思いながらかの地へと向かった。

それらの展示資料は、入口を入ってすぐの場所に展示されていた。名目上は新収蔵資料展ということだったが、資料のほとんどが下山事件関係。中でもわら半紙にガリ版刷りされた事件資料には、思わず見入ってしまった。

6つのガリ版資料の内容は以下のとおり
ガリ版1「他殺、自殺両見地から事件を見た場合の根拠、疑問点について」
ガリ版2「7月5日における下山総裁の行動(大西運転手の供述による)」
「7月4日における下山総裁の行動(大西運転手の供述による)」
「足首、靴、靴下止め 散乱状況」
ガリ版3「自殺にあらずとする下山総裁夫人の供述」
ガリ版4「下山総裁を轢過した機関車を使用して行った試験結果」
ガリ版5「下山事件その後(7月21日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過」
ガリ版6「機関車気圧放出試験」

これらの資料のこまかい検証(出所や何のために作られた資料か?)には時間が必要なので別にゆずりたいが、僕が興味をひかれたのは、いわゆる捜査一課から流出したとされる「下山事件捜査報告書(いわゆる下山白書)」には記載されていない、いくつかの内容が散見された点だ。

たとえばガリ版2に記載されている大西運転手の供述だが、7月5日だけを見ても下山白書よりも遥かに詳細に記載されている。とりわけ驚いたのは大西運転手が築地の自宅を出発してから洗足の下山邸に向かうまでのルートと所要時間、さらには総裁が三越で失踪するまでのルートと各主要ポイントまでの所要時間が詳細に記されている点だった。これらは「下山白書」には記載されていない内容だった。

これによれば大西運転手は午前7時45分に築地の自宅を出発し、三原橋交差点→昭和通→新橋電停というルートで下山邸にむかったことがわかる。洗足までの所要時間は25分とある。僕が今まで不明だった点のひとつに、大西運転手はまず国鉄本庁に出勤し、そこから総裁専用車で総裁邸に向かったのか、直接築地の自宅から総裁邸に赴いたのかがあった。だが、これにより判明した次第。そうか大西さんの家の敷地面積が妙に大きかったのは(下山事件ギャラリーを参照のこと)きっとあのどデカいビュイックを駐車するためだったんだね。

また下山邸の直前に「池上線陸橋」と記載されていることから考えると、大西運転手は洗足の住宅地に入るのに恒常的に陸橋ルートを使っていたと考えられる。これは僕が主張していた「淡谷のり子邸の前は通っていない説」にひとつの光明をあてているのではないだろうか。

いっぽうで洗足池から三越までのルートが詳細に記されていることで、今まで推定でしか語れなかった各ポイントの通過時間を、修正しなければならない可能性があらたに出てきた。

たとえばガリ版にはこのような表記がある。

下山邸(8時20分頃発)→(12分)→品川→(3分)→三田→(4分)→御成門

僕が今まで推定していたものを上と同じ表記にすると、

下山邸(8時20分頃初)→(13分)→品川→(3分)→三田→(3分)→御成門
という具合に若干の誤差が生じてくる。

とまあこんな風に、たった一枚のガリ版資料にも、何だか新たな発見のあるこの資料展。3月12日まで公開しているので、「シモヤマニア」な人は行くべし!

最後になるが、ガリ版5「下山事件その後(7月21日第一回合同捜査会議以降)の捜査経過」の隅にペン書きでこのような書き込みがあった

「25 3 12 布施君より受取」。

布施君といえば、事件現場の検証段階から立ち会い、事件そのものの主任検事だった東京地検の布施健検事(のちの検事総長)その人に違いないだろう。彼を「君づけ」で呼べる人物こそが、この一連の資料を所持していた人物ということになるようだ。