和文タイプライターと義父

5月9日、京都にいる義理の父が亡くなった。享年80歳。

伊東四朗に瓜二つ(誕生日もぴったり3か月違い!)だった義父は、4年前に体調を崩してから入退院を繰り返していた。
最後にお会いしたのは5月3日水曜日のこと。すっかり弱ってしまっていた義父だったが、アサイチで志津屋の本店(右京区山ノ内)まで大好物のカルネを買いにいったという話をしたら「ホンマ好きやなぁ~」と笑っていた。
「今日横浜に帰ります、お元気でいて下さい」と握った手はすっかり痩せてしまったけど、大きくて温もりがあった。

それから一週間後の同じ水曜日、僕は再び京都にいて、義父の通夜に参列していた。

【2008年、聖地にて】

義父の事を語る時「和文タイプライター」の事を語らなくてはいけない。
現在、我々はワード(Word)などのソフトを使ってキーボードでひらがな文字を入力し、それを日本語に変換し、プリンタで文書を出力するということをやっている。
それより以前、この国には「ワープロ(ワードプロセッサー)」という日本語文書の入出力装置があった事を覚えている人も多いだろう。プリンタが一体化されたこの装置は、1978年に発売された東芝JW-10が世界初の日本語ワープロだったと言われている。1990年代後半になるとワープロも高度な変換能力や表計算能力、描画能力を持つに至ったけど、あっさりパソコンに覆されていった。

ワープロはまだ記憶に遺されているけど、それ以前に「和文タイプライター」という日本語入出力装置があったことはあまり知られていない。
正直言って、僕もカミさんと結婚するまでそれを知らなかった。
いや、こうした形状の装置があることは知っていたけど、実際にどうやって使うということを知らなかった。

【和文タイプライター Wikipediaより】

使用頻度の高い1000文字の活字があって、左右上下にスライドする文字盤から、その文字を選ぶと、その活字が打刻される仕組みになっている。
うまく説明できないので、この動画を参考にして下さい。

1000文字の位置を探すだけでもひと苦労なのだけど、簡単に活字による紙メディアが作れるということから、ワープロが誕生する昭和55年頃までは事務機としてかなり使用されていたそうだ。特に官公庁などでは戸籍の作成にこの機械を使っていたらしい。

義父は昭和12年に兵庫県の吉川(現三木市)という所で生まれた。なだらか丘陵に田畑が広がる所で、酒米として有名な山田錦の発祥の地でもある。奇しくも僕が運営している「下山事件資料館」の下山定則の出生地である三田市の木器(こうづき)とは直線距離で8kmほどの場所だ。

実家は商人宿と農業を兼業していて、今でもビジネス旅館を経営している。
驚いたことに兄弟は10人もいたそうだ。家内曰く「誰が誰だかわからない」ぐらい親戚が多かったそうだ。
今回の葬式では現存する4人の姉弟が来て下さった。

吉川あたりからだと神戸は真南に8kmぐらい。義父は神戸大空襲の話をよくしてくれた。
「吉川からだと山の向こうが昼間みたいに真っ赤に明るくて、そりゃあもう怖いもんでしたわ」

偶然だけど太平洋戦争の頃、僕の父も神戸の須磨に住んでいた。空襲の時は岡山に疎開していて難を逃れたけど、今でも双方の家の親戚が神戸には多い。
最近結婚した従兄弟も偶然にも転勤先の兵庫で嫁さんをつかまえたから、何かと縁のある所なんだろう。
和文タイプライターの活字注文書
【現存する活字注文書。この配置がそのまま和文タイプライターの活字配列だったようだ。使用頻度の高い活字がセンター(一級)に、漢字は訓読み「いろは」配列で縦に並んでいる。「いろは」配列もそうだが、一級活字群に「御座被」「昭和」などの漢字があるところが、何か古典的な配列であることがわかる。それにしても、この文字の位置を覚えるというのは並大抵ではないだろう】

さて、義父の話。
何番目かのお姉さんが嫁いだ先が京都御所の真ん前(丸太町通)にあった「藤原事務機」という会社だった。ここが和文タイプライターを取り扱っていた。
文字通り「上京」した義父はここで働き始めた。義父はそこで営業と機械のメンテナンスをやっていた。
これまた偶然なのだけど、僕の祖父が昭和の初めに就職して最初に働いた勤務地が京都だった。
祖父の叔父に京都に養子に行った人がいて、祖父はその家に下宿していたのだけど、これがまた京都御所の真ん前(烏丸通)だったらしい。
私は私で京都に勤務中に職場結婚したから、これまた土地との縁というものがあるようだ。

京都という土地がなおさらそうだったと思うのだけど、和文タイプライターの需要は高かったようだ。
官庁関係はもちろんのこと、大学関係、そしてお寺さん関係は檀家や信者に配布するために、独自の印刷ツールとしてこれを利用していたそうだ。
そういえば京都競馬場でも需要があったと義父から聞いたことがある。
和文タイプライター活字注文書の裏面
【活字注文書の裏面。予備表ということは1000活字より頻度が低い活字というなのだろうか?】

もっとも、1000文字の位置を把握するのは並大抵のことではない。大きなお寺さんや企業となると専門のタイピストを抱えていたそうだ。
義母はそんな客先のタイピストのひとりだったことを、今回初めて知った。

さて、和文タイプライターが悪用された事件として有名なのが「グリコ・森永事件」。1984年、江崎グリコの社長誘拐事件から始まったこの事件、スーパーに青酸入りの菓子が置かれるという無差別犯罪へと発展した。この時、犯人が菓子に貼った「どくいり きけん たべたら しぬで かい人21面相」という紙は、和文タイプライターで印刷されたものだった。

京都と大阪を舞台にしたこの事件、義父の会社にも警察が何度か捜査に来たそうだ。

【2012年、吉野からの帰りに寄った河内長野の観心寺で。これが義父も参加した唯一回の旅行だった】

1979年にワープロが登場すると、急速に和文タイプライターの需要は減っていった。
1989年、藤原事務機の社長が亡くなった時点で会社は解散し、客先を引き継ぐ形で義父は個人事業主となった。
客先の機械のメンテナンスや部品の販売、活字の供給などが主な仕事だったようだ。
今回、義父の遺品を整理していて知ったのだけど、1996年10月に廃業届を出していた。奇しくもこれは初孫(私の長女)が生まれた同じ月で、何か思う所があったのか偶然なのかはわからない。すでにWindows 95がリリースされて、時代はPCでプリンタから文書を出力する時代へと変わっていた。

それでも需要がゼロになったわけではない。最後まで需要があったのは「お西さん」こと西本願寺と京都大学だった。
「どうしてもこの機械でなければ出せない書類があるんや」と義父は言っていた。

そんなわけで、今から10年程前には家内の実家の事務所にはこの和文タイプライターが何台もあったけど、5年程前に川崎で無償で引き取ってくれる業者さんがいて、全部引き取ってもらったそうだ。「一台記念に頂けば良かった」と後悔したけど後の祭だった。
もっとも家内に言わせれば「大きすぎて邪魔」。何しろ机一台をまるまる占拠する大きさがあるからだ。

仕方がないので数年前に活字が一杯入った箱を持って帰ってきた。
これ、今回の記事を書くにあたって探してみたのだけど、どうも物置の奥にしまったようで、どこにあるのかわからなかった。