ジョージ・マーティン死去に思ったこと

おみおくり

僕は今、ぼかんした気持ちでこのブログを書いています。
先ほど「五人目のビートルズ」とまで呼ばれたレコード・プロデューサー、ジョージ・マーティンの訃報が入りました。享年90歳。
何から書いていいのかわからないけど、別に何も書かなくてもいいんだけど、何か書かなきゃなという気持ちでキーボードを叩いています。

なんでこんなに気持ちになるのかといえば、ビートルズが好きな人には父親みたいな存在だったからでしょう。
メンバーたちの「この曲をこういう風に表現したい」という漠然としたイメージを具体的に音として提案できた彼の才能が、どれだけビートルズに音楽に寄与したかわかりません。
ファンにとっても同様です。僕は中学生で彼らの音楽を聞き始めたわけですが(たとえとしてヘンかもしれませんが)常にビートルズの父性的存在、いや上位概念に位置する存在として、どれだけ彼のことを敬意のまなざしで見てきたかわかりません。
Produced By George Martin
僕の手元には「Produced By George Martin」という6枚組のCD BOXがあります。長野県松本の中古CDショップで入手したものですが、プロデューサーとしての彼の歴史を追ったコンピレーションです。この中で一番古い作品は1951年にプロデュースしたFreddy Randall & His Band「Won’t You Come Home Bill Bailey」と、Graeme Bell & His Australian Jazz Band「High Society」でしょう。イギリス人のジャズミュージシャンがニューオリンズスタイルのジャズをプレイしているものです。そこから1962年にビートルズと出会うまでのプロデュース作品を聞いていると、「雑食」という言葉がよく似合います。アコーディオンを効かせた東ヨーロッパのポルカから、ロシアの民族音楽っぽい音、ラテン音楽、コミックソング....まで何でもこなしてきたのがわかります。
ビートルズとジョージ・マーティン
「自分は異端のプロデューサーだった」というのはジョージの言です。王道の作品よりも、アウトロー的な作品ばかりプロデュースーしてきたという意味ですね。
この異端児...いや雑食系のプロデューサー...彼がオーディションを落ちまくっていたリバプール出身の4人の若者と出会う所から歴史が始まります。1962年6月6日のことでした。

雑食系プロデューサーには既成の観念にとらわれない自由な発想があり、古今東西の音楽を愛するメンバーと相性ががよかったのだと思います。いや逆でもあります。古今東西の音楽を愛するプロデューサーと、既成の観念にとらわれない自由な発想を持つ4人の若者との相性は抜群だったのでしょう。
彼らが自由に飛翔するための足場を作ったジョージ・マーティン、どれだけメンバーにとって重要な存在だったかわかりません。
ジョージ・マーティンとビートルズ
ポールが「イエスタディ」のアレンジを相談した時に「マントヴァーニみたいのはいやだ(大げさなストリングスはいやだという意味)」と言えば、弦楽四重奏を提案してスコアを書き上げる。ジョンが「イン・マイ・ライフ」の間奏にバロック風のピアノが欲しいといえば、ササッとそれらしい音楽を奏でてくれる。彼はビートルズにとってはマジシャンなような存在であったのでしょう。
ビートルズ・トリビュート「イン・マイ・ライフ」
「イン・マイ・ライフ」といえば1998年にジョージのプロデュースで同名のビートルズ・トリビュート・アルバムがあります。ビートルズの音楽を様々なスタイルでアレンジ、歌手のみならず、コメディアン、俳優にまで歌わせた(朗読させた)アルバムです。この作品を聞いていると、ジョージの音楽の幅の広さや深さ、豊かな感性を感じずにはいられません。そしてこれは、彼にとって「遺言」のような作品だったと思います。

(「イン・マイ・ライフ」からショーン・コネリーの朗読による「In My Life」)

何やらロック好きにとっては色々と寂しくなりますね。デビッド・ボウイは亡くなるし....今年はそういう意味では悪いことばかり続いていますね。