武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [4 – おまけ]

武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [3]の続き

「究極の廃道マニア」は誰か?と問われれば、僕は「山さ行がねが」の管理人ヨッキれんさんだと思っている。この人は幻の「清水国道」を踏破された方で、僕はこの偉業を「廃道探索のSgt.Pepper’s(金字塔)」だと思っている。ヨッキれんさんの凄い所はつづら折りの道をショートカットせずに、ガチで前進したところだ。

痛恨の極みだったのは、A君から事前に「山行が」の「草木ダム水没遺構群の記事がおすすめ」と言われていたにも関わらず、それを読み忘れていたことだっだ。そして現地へ行ってしまった。

武尊神社を見たあと、我々は草木橋の上をうろうろしていた。
A君が「ダムの水位が低いと、この辺りに国道の廃道と橋が見えるんだそうです」と教えらえたからだ。

今年は2018年。空前の猛暑の後だから、9月といえども見えるはずだ。
見渡していたら、A君がそれらしい橋に気付いた。橋の西詰の下流側だ。

内出橋
内出橋

「あれじゃないですか?」

僕はそれを見て「うーん」と考えて込んでしまった。これがいけなかった。

普段水没している橋、ダム完成以前、つまり昭和53年以前に作られた橋にしては、妙に劣化が少なくて、デザインも新しく見えたからだ。
橋の親柱は、さりげなくデザインがこっている。実用的にちゃいちゃいと橋を作ってゆく昭和時代(中期?)の代物には思えなかった。

船着き場のような階段

さらにこれも勘違いの原因となった。

橋から近い場所にあるこの階段。どう見てもダム建設時のものとしか思えない。

「あれはダム工事の時に作られた親水公園みたいなものじゃないかな。どうみても新しく見えるんだよね」とA君に言ってしまった。

むしろこっちはホンモノだろうと思ったのが、橋の上流側から直下を見下ろしたこの光景だった。

(水没している旧武尊神社の参道)

時計は14時を過ぎていた。この後足尾銅山を廻る予定もあったので、次を急いでいたというのもある。
帰ってから「山行が」の記事をじっくり読んで。「しまった、本物だった」と後悔したわけだ。

A君とのプチ旅から2週間後のことだ。
カミさんと適当なドライブに出た僕は、再び車をこちらへと向けていた。
草木ダムの遺構をしっかり確認したいというのもあったし、前回は日没で断念した細尾峠(足尾と日光を結ぶ「日足(にっそく)トンネル」の旧道)を越えてみたかった。カミさんにしたらいい迷惑なんだけど、そこは宇都宮餃子で勘弁してもらおう。

草木橋の西詰に駐車場があって、長い階段を下りていった(実際にはそんな必要はなくて100mぐらい手前の「草木公園ボートのりば」という看板を下りてゆけば、ダム湖畔ギリギリまで車で降りることができる)。

内手橋
内出橋
打出沢
内出橋

近くで見たら「あっ、こりゃあ本物だ」と納得できた。内心「A君、ごめんなさい」とも思った。みると「内手」ではなく「打出沢」と書かれている。名前から察するに、昔は鉄砲水が多発する沢だったのではないだろうか

打出沢
内出橋

やたらと砂利の含有度の高いコンクリートがいかにも昭和を思わせる。「山行が」さん情報では「昭和32年6月竣工」とのことだ。

内手橋
「うちでばし」と草木橋の橋脚
内手橋
「日光大間々線」とあった)

しかしまあ、よくもこんなに昭和中期の橋がきれいに残っているものだ。
普通ならばこの時代の橋なんて、車の振動や排気ガスの影響でボロボロになっているはず。
そうでなくても水没しての劣化がほとんど感じられない。廃道の遺構うんぬんよりも、そちらの方に感心してしまった。

旧武尊神社参道
旧武尊神社参道跡)

いかんいかん、今回の目的はこちらだった

旧武尊神社参道

ヨッキれんさん、極めつけの渇水期に行かれたようで、草木橋の橋脚まで歩いてゆけたというのは驚きだ。
残念ながらこの程度の写真しか撮影できなかった。
それでもスマホに格納してきた国土地理院の航空写真と照らし合わせて、なんとなく参道遺跡と「日光大間々線(昭和39年からは国道122号)」との位置関係がわかってきた。

1948年 草木集落
昭和23年[1948年]10月19日、国土地理院撮影の草木地区。解像度低いのはやむなし
昭和50年[1975年]11月17日、国土地理院撮影。水没直前の草木集落

それでは古い時代の航空写真と新しい時代のそれをを重ねあわせることで、旧武尊神社の位置を確定し、実際にそれが映り込んでいないか改めて確認してみよう。

昭和44年11月6日、国土地理院撮影。実はこれに「参道らしきもの」が写っている

これをフォトショを使って昭和50年の航空写真と重ねあわせてみた。レイヤーの透明度を10段階にわけて重ねてみた。



(昭和44年の画像を、昭和50年撮影のものと透明度50%で重ねた状態

どうせだから一枚のスライドショー動画にしてみたのがこれだ。

参道と境内と思われる部分(青)、内出橋(黄)

ダムの上に建設された草木橋の直下、昭和44年の写真には道路から「参道らしきもの」が確認できた。

さて、そこで気付いたのは「内手橋」は二本の橋が平行してあったのではないか?ということだ。

昭和23年の画像を見るとわかるのだけど、下(桐生方面)から来た道(日光大間々線)は二手に分かれてから「やや平行」に進み、途中から大きく分岐している。右側の道は旧道だろう。草木の集落の中を貫いている。

左側の道はバイパスだ。これが現在も渇水期に確認できる道だと思う。
下の昭和50年の画像では造成工事が進んでわかりにくいけど、ここでも、やや平行に進む二本の道が確認できる。

この「やや平行」というのがポイントで、このやや平行部分の左側の道が、現存する内出橋の位置に該当するからだ。もっとも昭和23年当時は旧橋がかかっていたのだろう。

一回目の訪問の時、草木橋の上から下流方面を撮影したこの画像をみると、それが感じられる。

橋の手前で二股に分岐して、平行に橋があったんじゃないか説。平行していたはずの橋は、現存する内出橋よりやや標高の低いところにあり、そのまま集落の中へと続いていた

思うに、当時使われていたと思われる橋(赤色)を架け直すのではなく、新たにバイパス用に右側に架橋したのだと思う。
さらにそのバイパス用の橋を昭和32年に架け直したのが、現存する「内出橋」(青)ではないだろうか。

これはあくまでも仮定だ。
おそらく国会図書館か神保町で昭和53年以前の詳細な道路地図と格闘すれば、答があると思う(国土地理院から高解像度版の画像を購入してもいい)。

昭和6年の草木地区
昭和6年時点の陸地測量部の地図にはバイパスは確認できなかった。ただし縮尺が小さくて省略されている可能性はある

足尾銅山というほとんど「国策もの」の大資源、そして日光という重要な観光地を抱えていた道だ。早くから交通量は多かったと思われる。そしてそれは今でも変わらない。想像していた以上に交通量が多い道だと感じた。
すでに昭和23年時点で草木の集落外にバイパスがあっても不思議はないと考えた。

出橋と旧道、旧武尊神社参道の位置関係。参道のほぼ真上が現在の草木橋

武尊神社の参道はそのバイパスによって寸断されてしまった。
さらにダム建設によって移転を余儀なくされ、多くの氏子までも失ってしまった。

そんな歴史を辿った武尊神社の由緒が「不詳(大正3年刊行『東村郷土誌』)」だということは、前の記事で書いている。
ただひとつわかったのは、かつてここの神社のあった附近に「草木城」というお城があったらしい、ということだ。

それは思わぬ所に情報があった。自分も城巡りの際に参考にさせて頂いた「余呉くんのお城のページ」には、ドンピシャこの場所に「草木城」があった事が書かれている。城跡が神社というのは、あるあるな話だ。