小田原空襲の記憶 -蓮上院土塁の爆弾投下跡-

歴史の切れ端

「漏斗孔(ろうとこう)」っていう言い方でいいのだろうか。空襲などで爆弾が着弾して開いた逆円錐形の大きな穴のことだ。

昭和17年4月18日、本土初空襲で生じた「漏斗孔(手前)」。爆風が家屋を抜けているのがわかる。雄鶏社「東京大空襲秘録写真集(1953)」石川光陽撮影

実際にそういうのを見たことはなかった。ましてや太平洋戦争時の漏斗孔が現存しているなんて、ありえないと思っていた。

小田原市立新玉小学校の横に「蓮上院土塁」というのがある。豊臣秀吉の小田原攻めの際、北条氏が築いた土塁(敵の侵入を防ぐために作られた堤防)だそうだ。

蓮上院土塁

その歴史的な土塁が、米軍の空襲で爆弾の直撃を受けたのは、昭和20年8月13日の午前8時30分ぐらいのことだった 場所が場所だけに、修復もされなかったのだろう。今でもその跡が奇跡的に残っていた。

どうも小田原という街は、米軍の戦略的にはさしたる重要性がなかったようだ。「 米軍の日本都市空襲の候補地が記された「180 都市の表」の 96 番目には小田原が挙げられて(「伝えておきたい小田原の戦争と平和(小田原市総務課パンフ)」いるものの、計画的で網羅的な都市爆撃と言えるものはなく、他都市の空襲の帰り道に余剰爆弾を投棄するための爆撃であったことがこのパンフからもWiki「小田原空襲」の記事からも伺える。

終戦の8月15日に、小田原は日本で最後となる空襲を被っている。焼けた家屋は400戸、死者は12人とも48人とも言われているが、米軍の公式記録にはなく、熊谷と伊勢崎での空襲の帰還中に、米軍が投棄した焼夷弾による空襲だったそうだ。

その漏斗孔

さて、8月13日の空襲に話を戻す。
この日、4発の爆弾がこの付近に投下された。
2発は隣接する新玉国民学校に着弾し、校舎の一部が倒壊、宿直していた教員1名と用務員2名が亡くなっている。さらに1発は 近くの田んぼに、そしてもう1発がこの歴史的な土塁を直撃した

説明板

実際に 行ってみて驚いたのは、想像していた以上に大きな「漏斗孔」の姿だった。高さ3.5m、幅10mはあろうかという土塁が、ごっそりえぐられている。戦国時代などに人為的に作られた土塁の切れ目ではないのは明らかだった。

自転車とかフェンスとかフェンスの柱とか邪魔で、どうもうまく撮れない。

フェンス越しにしか見ることができないのが残念。
向こう側の土塁の一部が残っている事、漏斗状になっている孔の形状からすると、現存するのは半分ぐらいで、フェンスのこちら側(道路と住宅側)まで大きな穴が開いたのだと思った。

おそらく直径20m、最深部で深さ4m程度の穴が開いたのではないだろうか。

漏斗孔と道路を挟んでお向かいにあった日本家屋。当時のものか戦後のものかは不明だけど、えぐられた土塁の形状から考えるとは、爆風の大半はこの家側に抜けたんだと思う。石川光陽の写真でもわかる通り、日本家屋って内部の人間にはひとたまりもないのだけど、不思議と爆風には強靭な所がある。

お向かいの日本家屋、人が住んでいるような気配が感じられなかった。
1947年の米軍撮影の航空写真より。

1947年の航空写真では、ぽっかり穴が開いているのがわかる(中央の黒い丸)。そしてお向かいには家屋が密集しているのがわかる。

こんなもの日本中にボコボコ落とされてごらんなさい。しかも焼夷弾も原爆も落とされた。そりゃあもう白旗あげるしかないだろう。

ていうか誰だよこんな戦争始めたやつ。

終戦まであと二日、もし学校が夏休みでなければ、もっと大惨事となっていた事だろう。

歴史の切れ端