不思議の国の三原橋地下街
Twitterで銀座にあった三原橋地下街が完全に消滅したのを知った。
その数日後、たまたま東京に用事があったので、現場へと行ってみた。

うわあ、本当に消えてら。
ちょっとした公園というか憩いのスペースになっている。
ビルが消滅したお陰で、東京のど真ん中にしては開放感のある場所になったようだ。
2013年、取り壊し直前の三原橋地下街と上部のビルを2度ほど撮影している。9月30日は知人と「鳥ぎん」で釜めしを食べる前に、10月19日はお台場でモーモー・ルル・ギャバンのライブを見た帰りに寄っている。一連の写真はその時のものだ。

この時点で、すでにテナントの映画館「銀座シネパトス」は閉館となっていた。
不法侵入を防止するためか、テナントの入口は板で覆われていた。

半月形の建物の周囲は晴海通りと裏通りに囲まれていて、裏通りからちょっと階段を降りると、そこに「地下街」があった。
ここにあった映画館で「ふしぎの国のアリス(1951年)」を観たのは昭和64年1月6日の事だった。
当時は「ぴあ」を片手に東京中で名画を観まくっていた。「サイケデリリックな世界観がヒッピーに支持された」という、嘘か本当か分からない情報に釣られたのだ。
当時の映画館名が「銀座シネパトス」だったかどうかは覚えていない。
だが、この頃から「銀座」と言うには何か場違いな、場末の雰囲気があった。

映画の方はといえばご覧の通り。あまりのシュールな展開に、あんぐりと口を開けて見るしかなかった。
映画館を出たのはすでに21時を過ぎていたと思う。妙に寒い夜で漆黒の空には雲が重く垂れこめていた。

「これは頭で考えて観ちゃだめな映画ね」。一緒に行った彼女がそんな事を言っていた。




映画のお陰で妙な夢にでもうなされたのかもしれない。
翌日、午後まで熟睡していた僕は、先輩からの電話で起こされた。
その日の早朝、昭和天皇が崩御した事を僕が全く知らないという事に先輩は驚いていた。

その日、深夜零時の時報と共に時代は「平成」となり、平成は容赦なく昭和の記憶を消し去る時代となっていった。

この建物に思い入れがあるとするならば、「昭和の最後に映画を見た場所」という事になる。
しかし、そういうノスタルジアよりは、むしろ「古い建物が壊される、撮らなきゃ」というのが正解だ。
昔「日比谷パークビル(旧日活国際会館)最後の記憶」という記事を書いたことがあるが、その時の感覚に近い。だから上部のビルも色々と記録してみた。

戦前までは「運河の街」だった東京だが、その多くが埋め立てられてしまった。
三十間堀川もその一つとなった。空襲によって生じた瓦礫を処理するため、埋め立てが始まったのは昭和23年(1948年)の事だった。
三十間堀川はわずか1年で消滅した。
そんな中、晴海通りで三十間堀川を渡る三原橋は撤去されず、その橋の下をくぐる形で「日本最古の」地下街が作られた。これが三原橋地下街だ。
映画館や店舗が並んでいた通路は、幅広の三原橋の下、川面を歩いているというのに等しい。昭和4年(1929年)に架橋された三原橋は、わずか19年で数奇な運命を辿った事になる。
そんな理由から、地下街入口の天井には三原橋の痕跡が残っていた。


このビルと地下街が完成したのは昭和27年(1952年)の事だった。設計は土浦亀城。昭和10年にこんなオシャレな自宅を設計しちた人だ。

三原橋ビルに関していえば、開放的な大きな窓と、直線と曲線の優美な構成、とりわけ角の曲面が実に美しい建物だった。ひと昔前のアールデコも入っている気もした。

この日の撮影を見ているとこの曲面ばかり撮影している。よっぽど惚れたんだと思う。


どうせなのでこういうツーショットも撮ってみた。
1952年最先端のビルと、捻じれちゃった感の凄いピアス銀座ビル(2008年竣工)のツーショット。もう曲線と直線に対する感覚も違うし、何よりも建築技術の進化を感じる事ができる。



テナントだったミュージックランドミヤコは、何度も利用させて頂いたお店だった。


それから3年後、再び三原橋に寄ってみたら、建物はすっかりなくなっていた。
しかし工事は継続中でした。どうも建物を潰して地下道を埋めて公園を作るという簡単な話ではなく、三原橋そのものを撤去するという大変な工事を地味に行っていたようだ。

さて「ふしぎの国のアリス」の感想の話。
「頭で考えちゃだめ」ということは「見たままに見ろ」という事だ。すっかりオサレになってしまった広場ですが「都市の記憶」として、往年の沢山の画像をここに残しておくことにする。

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