湯の花トンネル列車銃撃事件から75年

今から12年前、僕はこのblogで「祖父と湯の花トンネル列車銃撃事件」という記事を書いた。
昭和20年8月5日、疎開先の息子に出会うため祖父が乗った中央本線419列車は、浅川駅(現在の高雄駅)と与瀬駅(現在の相模湖駅)の間で米軍機の執拗な機銃掃射を受けた。

奇跡的に祖父は助かったが、眼前にいた赤ちゃんは12.7ミリの機銃弾によって頭を吹き飛ばされた。死者は65人以上(慰霊会調べ)といわれている。

湯の花トンネル列車銃撃事件現場(2018年)
今は圏央道と中央道が交差する八王子ジャンクションの真下となった。

この「湯の花トンネル列車銃撃事件」については、2015年に「戦後70年 千の証言スペシャル-私の街も戦場だった-(TBS)」というタイトルでドラマ化されているから、ご記憶の方も多いことだろう。

この時、祖父が亡くなっていたら僕はこの世にはいない。もちろん僕の子供たちもだ。
この事件は、自分の人生観に大きな影響を与える事になった。人間というのは存在そのものが「奇跡」だということ。その意味を考えながら生きるようになった。

今でも時々は事件現場を訪れているし、圏央道の八王子ジャンクションを通過する際は心の中で黙祷を捧げるようにしている。事件現場はこの真下にあるからだ。

昭和20年7月1日発行の鉄道時刻表より。実際には419列車は20分遅れで新宿を出発しており、浅川で空襲警報発令のため20分程度停車していた。

事件に関する記事を書いてから12年、祖父が会いに行った疎開先のS叔父も、血のシミだらけの国民服で帰宅した祖父を迎えたH叔父もすでに鬼籍に入った。僕の記事を読んだ多くの方からコメントを頂き、それが縁で遠い親戚と初めてお会いすることもできた。

2007年の事件現場

想像の斜め上を行くお問い合わせもあった。
記事を読まれた九州大学の赤坂幸一教授(当時は准教授)によると戦前期の議院事務局職員の日記というのは珍しいものなんだそうだ。祖父の日記は帝国議会制度の研究や、新発見された萍(うきくさ)憲法調査会議事録の研究でお役に立つ事ができた。教授渾身の著書「初期日本国憲法改正論議資料(柏書房)」には、祖父日記が多少なりとも引用されている。

「大東亜戦争中 東部軍管区内に於ける被空襲記録」より。
列車を襲ったP51の編隊に関する警戒警報は11時17分に発令されている。

何もかもがどんどん記憶の彼方へと遠ざかって行くのは仕方のないことだ。
いよいよ今日で75年となるこの事件、あの時にきちんと記事を書いておいてよかったと自分は思っている。

(なお、この事件に関しては歴史研究家の齊藤勉さんが書かれた「中央本線四一九列車」に詳しい。おすすめの一冊です。)