関東大震災の記録映像に三木鶏郎が映っている話

(2023/9/2にNHKで放映された「映像記録 関東大震災 帝都壊滅の三日間 後編」では三木鶏郎と思われる少年が映像に写っているという本記事に酷似した内容がありました。
言うまでもなく本記事は番組より二年前の2021年12月に投稿したものです。本件に関してNHKに抗議した所、10/3にNHKのプロデューサーさん2名が上大岡にある私の会社にお越し下さり、取材の経緯について差しさわりのない範囲できちんと説明を承る事ができました。公式な謝罪ではありませんが、説明をするためにわざわざ横浜までおいで頂いた事に対し「そういうものに近いのでしょう」と僕は勝手に受け止める事にしました。詳しくはこちらの記事をお読みください。)

僕が子供の頃、母がよくこんな変な曲を唄っていた。

「僕はお猿の機関士で、可愛いあの子は駅ごとに、いるけど3分停車では、ノミ取る暇さえありません」

僕は特急の機関士で

この曲が「僕は特急の機関士で」という古い歌の替え歌だと知ったのは、15歳ぐらいの時だった。いつでもそうだけど、音楽との出会いは「発見する」瞬間が一番スリリングで忘れられない。友人から借りた「懐かしのTVソング全集」みたいな2枚組のレコードに1968年にリメイクされたキングレコード盤(榎本健一, 楠トシエ, キングオーケストラ)が収録されていたのだ。

僕は特急の機関士で

「なるほど、これが元ネタか!」と妙に嬉しかった。
これが三木鶏郎(みきとりろう) と出会いだった。

三木鶏郎は戦後の時代を駆け抜けた天才的な音楽家だ。
作詞作曲だけではない。コントの放送作家までこなし、ナレーションもこなし、時には自ら歌うというマルチタレントぶりを発揮した。GHQによる放送改革の中、過激な社会風刺や政治風刺を織り交ぜ、NHK『歌の新聞(1946)』『日曜娯楽版(1947)』における「冗談音楽」、『ユーモア劇場(1952)』などの伝説的な番組を作り上げていった。

しかし1954年、造船疑獄の際の一連の風刺、特に犬養健法務大臣が指揮権を発動した直後の放送におけるコントが吉田内閣に睨まれ、番組は打ち切りとなる。それと前後する形で1951年には日本初のTVコマーシャルソング「僕はアマチュア・カメラマン」を生み出す。その後も「淀屋橋(天満橋)から三条へ京阪特急」「明るいナショナル」「キリンレモン」「アスパラでやりぬこう」などの名曲の数々を生み出し、1994年に亡くなった。

そんな彼が関東大震災の記録映像に映り込んでいる。
「えっ、時代が違うのでは」と思う方もいるだろう。でも事実だ。

「冗談音楽」1954年 駿河台書房
三木鶏郎回想録
「三木鶏郎回想録」(1994年)平凡社 -CDつき2冊セットで13,000円もした。

彼の自伝は何冊かある。
1954年に出版された「冗談十年」「冗談十年 続」「冗談十年 続々」の3部作、そして1994年の「回想録」だ。改めて読み直してみたら、それは「回想録」に書かれていた。

三木鶏郎の本名は繁田裕司(ひろし)。1914年(大正3年)1月28日に東京の飯田橋で生まれた。父保吉は伊賀上野の出身で岡山地裁の判事から弁護士になった人物、母の志満は飯田橋の料亭「富士見楼」の娘だった。父の仕事は儲かっていたようで、ほどなく日本橋青物町へ、さらに水天宮前の蛎殻町に鉄筋コンクリート3階建ての「繁田保吉法律事務所」ビルと、木造二階建ての住居を建て、そこに移り住んでいる。場所は日本橋区蛎殻町1-4、これは現在の中央区日本橋蛎殻町1丁目27番地の北東角付近だったのではないかと思う。

繁田裕司が関東大震災に遭遇したのは、この蛎殻町だった。この日(1923年9月1日)は新学期だったが、裕司は始業式を終えて自宅に帰り、家族でやや早い昼食を食べていた。父保吉は裁判が午後一時からだったためまだ家におり背広姿だった。母も外出の支度を整えてテーブルにいた。別間では林という書生が食事をしていたし、他に2人の女中がいた。家族6人…男性3人女性3人が珍しく全員揃っていた。 繁田裕司の弟でジャズ評論家や司会者として有名になる三木鮎郎こと繁田文吾はまだ生まれていない。そんな6人がめいめい昼食をとっている最中に、震度6強、あるいは7の地震に襲われたのだった。

住居と事務所の間に埋め込みの巨大金庫があり、家族はその金庫につかまりながら揺れが収まるのを待った。

幸いな事に建物は無事だったが、周囲の家々は倒壊し、方々で火の手が上がっていた。どこか広い場所へ避難しようという事になった。
自宅からやや近いのは陸軍本所被服廠跡地(現在の横網町公園)で、宮城前広場(皇居前広場)はやや遠かった。

半数が女性の繁田家では「近い方がいいのではないか」という意見もあったが、「天皇陛下が焼け死ぬことはまさかあるまい」という父の判断で宮城前広場へと避難しようという事になった。そもそも「天皇陛下」は日光田母沢御用邸にいたわけだが、父のこの判断が間違っていたとしたら三木鶏郎という人物はこの世にいなかったのかもしれない。 16時ごろ陸軍本所被服廠跡地に襲い掛かった火災旋風によって、ここだけで3万8千人が命を落とすことになったからだ。

家族は宮城前広場に辿りつくと、外濠の外側が火の海になるのを呆然と眺めていた。

翌2日、飯田橋の母の弟が迎えに来た。
おそらくここに避難しているだろうというカンで探しにきたのだという。飯田橋で親族がやっているお店「柳や」が焼け残ったので、そこに避難するようにと薦めてきたのだった。

繁田家は昨日歩いたのと同じぐらいの距離を歩いて、飯田橋へと移動する。

こうして、われわれはぞろぞろ内濠に沿って歩いていった。(中略)やがて九段下に出たが、靖国神社の広い敷地が幸いしたのであろう、火災はここで止まっていた。(中略)この時のわれわれの避難経路は、九段下から市電の道を通って飯田橋に出た。飯田橋のガードを潜り、橋を渡らずにその手前を左に折れ、川と土手に挟まれた道路を少し行くと右側に川に面して柳やがある。川は四谷・市ヶ谷・新見附・神楽坂下をつなぐ外濠から流れ出て神田川になる地点で、飯田橋・水道橋・お茶の水を経て隅田川に注ぐ。土手の上は鉄道中央線のレールが敷かれ、貨物列車の起点となり、院線鉄道が走っていた。

三木鶏郎回想録 -平凡社

おそらく「柳や」は現在の飯田橋駅舎あるいはセントラルプラザの場所にあったのだろう。しかしようやくたどり着いた「焼け残った店」も余震の続く中で過ごすには不安な建物だった。
保吉によれば「神田川の崖上に突き出したこの広間と地下風呂は、既にニ・三寸地滑りしているから、大きな余震でもあれば川の中に落ちかねない」。

そこで保吉が着目したは、土手の上だった。
「この土手の上に中央線のレールが走っている。すぐそこに退避線が引き込まれていて、その線路の上に有蓋列車が一台置き去りになっている。」
鉄道の土手の上にある貨車ならば類焼の心配はなく、地盤も硬くしているから土砂崩れにも安全だろうというのが父の考えだった。
「父は突拍子もないことを思いつくがいつも成功していた」と父を称えている。

お店からほうきと雑巾を借りて車内をきれいにし、ゴザを敷いて居住環境を整えた、お店にあった夜具で寝るスペースを作った。
父が半紙に「繁田保吉法律事務所」と書いて貨車の表に貼りだしたと、鶏郎は書いている。

そのうちに活動写真の撮影班の人々がやって来た。われわれの貨車を見つけると、そのうちの一人がわれわれの方に近づいてきた。
「朝日新聞の巡回班の者ですが、貨車にお住まいとは珍しい。震災の状況を全国に送っていますが、お住まいの様子を活動写真に撮影させていただけませんか」
「いいですよ、どうぞ」
と父が答えた。私は前にも書いた通り、活動写真が大好きだった。撮影の現場を見るのは生まれて初めてだったし、しかも自分が撮られるなんて、夢のようだった。しかし撮影は簡単で撮影技師と助手が来てカメラを少し回すと、あっさりすんでしまった。「繁田法律事務所」と書いた紙を大写しにして行った。これが全国で上映され、父の郷里伊賀上野の人びとは、この活動写真でわれわれ一家の安否を知ったという。

三木鶏郎回想録 -平凡社

ずいぶん前、この部分を読んだ僕は「そう言えばそんな映像を見た記憶があるな」と思い出していた。
歴史好きで、天変地異や災害に興味のある人間だ。ひととおり関東大震災の映像は見ているつもりだった。貨車の上で生活しているような絵があったという記憶が漠然とあった。

2021年9月1日、「関東大震災映像デジタルアーカイブ」というWEBサイトが公開された。国立映画アーカイブと国立情報学研究所の共同研究の結果を公開したサイトで、驚くほど精細にリマスターされた記録映像「關東大震大火實況」「関東大震災」の二本が自由に閲覧できるようになった。

關東大震大火實況(1923) 撮影監督:文部省社會教育課、撮影:東京シネマ商會、-関東大震災映像デジタルアーカイブ提供

そうしたら、まさに求めていた絵があった。19:26ぐらいから出てくる映像がそれだ。

関東大震災映像に映る三木鶏郎
その「絵」。

映像に映る無蓋の貨車は、地震の揺れで脱線して車輪が砂利に埋もれている。車体には次のシーンで大写しになる「繁田」の貼紙が映っている。
これが繁田家の利用していた貨車で間違いないはずだが、3人も子供が映っている。繁田家には子供は1人だ。

8歳の頃の写真と見比べた場合、一番その面影があって背格好が近いのは、最前に大振りの下駄を履いて立っている少年だ。
繁田裕司少年は関東大震災時に9歳小学校三年生だった。貨車の上にいる裸の男の子はもっと年上で小学校6年生か中学生ぐらいに見える。 隣の女の子は怪我でもしたのだろうか、左手と頭に包帯を巻いているようにみえる。僕は最前列に立つ少年こそ三木鶏郎本人だと考えた。思うに映像に映っている貨車の大きさからすれば、一両を2つに仕切って2家族が暮らしていたと考える方が自然だ。背後にいる二人は同じ車両の別家族だと考えた。
三木鶏郎の記憶とは色々と異なるが、そもそも小学校3年生の頃の記憶であるから割り引く必要はある。映像には数両の無蓋貨車が映っており、映像を撮影したのも朝日新聞ではない。

三木鶏郎と思われる少年は最初からカメラを意識して立ち位置を決めている。被写体慣れしている印象がある。丸太の上に大振りの下駄で立っているものだからバランスが取りにくかったのかもしれない。背中を向けている男性(保吉?)につかまってバランスを保つのだけど、次の瞬間にパッと手を放している。

カメラはゆっくりパンしながら、次の貨車を映す。するとまた別の家族が映し出される。こちらは子だくさんの職人さん一家のようだ。

大写しとなる貼紙

そして、次のシーンで「繁田保吉」の貼紙が大写しとなった。これが決定的な「証拠」だった。
思うに、このような記録映像に映り込んでいる人が、映された経緯を文章に残しているという事、これ自体が極めてレアケースではないだろうか。

翌9月3日、火災もほぼ鎮火したので、両親と書生の林は焼け跡の視察に出かけた。午後になって戻ってきた両親によれば、「飯田橋の向こうは神田・日本橋 上野山下は浅草・本所・深川まで全部焼き尽くされ、一面の焼け野原になっている」との事だった。日本橋蛎殻町の自宅も完全に焼失し、大きな金庫だけが瓦礫の中に焼け残っていたという。

この日、保吉は母校立命館大学総長の中川小十郎に相談に行き、彼の東京別邸の利用を許可された。

当時も今も同じように飯田橋・新見附・市ヶ谷・四谷と外濠に囲まれ、その内側を中央線の線路と土手が並行していたが、飯田橋と新見附の中間に、今はなくなってしまったが、「牛込駅」という小駅があった。九段上から神楽坂へ抜ける道路と、四谷・市ヶ谷・新見附の土手際を走る道路との交差線を市ヶ谷方面に行くと、右角の石垣と土手の接点に牛込駅の入口があり、左側は逓信博物館の背の高い古風な西洋館があり、その隅が中川小十郎先生の東京別邸になっていた。

三木鶏郎回想録 -平凡社

繁田一家は、貨車から中川別邸へと移動する。

その間の距離(注:貨車と中川別邸の間)は道路一つ隔てただけで、直線にすると100メートルもない至近距離だったが、この道路が中央線の道路に上にまたがる5メートルほどの陸橋で、水門の脇か、それ以上高い土手の下部を固めた石垣をよじ登らねばならず、ロッククライミングの専門家の技術を必要とした。当然のことながら、われわれの一隊は通常の道路を迂回することにした。貨車を出ると、土手を降りて柳やの前に出て、(中略)われわれ一行は飯田橋の大通りを右折し、ガードを潜って中央線の向こう側に出て、またすぐ右折、線路に沿い逆行、道は緩やかな登りとなり、陸橋の高さに達した点で十字路になる。右手の向こう側には逓信博物館がそびえている。右側は江戸のなごりの高い石垣に松の木が見える。その奥に隠れるようにして日本風の門構えがあり、それが今はない牛込駅である。逓信博物館の広い敷地の前を過ぎると、これに隣接して、ちょっと土盛りした上に、大谷石の塀に囲まれて瀟洒な屋敷があった。その屋敷の左側に四メートル幅の通路があり、その緩い傾斜を上ったところに門があって「中川」と表札が出ていた。中川小十郎先生の東京別宅であった。

三木鶏郎回想録 -平凡社

「われわれ一家が貨車に滞在したのは、結局一泊二日だったわけで、九月二日の一晩だけの宿泊」だったと三木鶏郎は書いている。

その後、牛込での暮らしは一年にわたることになる。