賞品は….

「賞品は"東洋での17日間の旅"です!」。
そう言われた70名近いディーラーたちとその家族はら大喜びした。

1965年、ミネアポリスにある冷凍冷蔵機器のメーカー「サーモ・キング社」の販売コンテスト授賞式の席上でのことだ。
winner
(大喜びするハワード・マックスウェル夫妻)

受賞ディーラーたちの大半は子供を親戚に預け、自分の伴侶を伴って東洋への神秘的な観光旅行へと行くことにした。
しかし、やむを得ない理由でこの旅行に行けなかった者もいた。
最優秀ディーラー賞を受賞したリトル・ロックのボブ・ブラウンはギリギリまで時間調整をしようとしたが、どうしても外せないビジネス上の用件があったため泣く泣くこの旅行を断念した。
「17日間も留守にすることなんか、できないよ」。
シンシナティーのレオナルド・ハーリンガーは最初からこの旅行に行くことを諦めていたようだ。
デトロイトのマイケル・ディゲロスも同じような理由から、せっかくのチケットを友人に譲り渡した。

出発当日、本来はこのツアーに同行するはずでなかったサーモ・キング社のラルフ・ポーター副社長がツアーに加わっていることにディーラーたちは喜んだ。総勢75名となった「サーモ・キング社ご一行様」は1966年(昭和41年)2月28日の深夜2時、極東の神秘の国ニッポンへと到着した。
彼らは東京の銀座でショッピングを楽しみ、日光での観光をへて、3月3日に新幹線で京都へと移動した。
移動日はあいにくの雨だった。彼らは何よりも富士山を見るのを楽しみにしていたのだけど、重く垂れ下がった雲に覆われ、新幹線の車窓からはその姿を見ることはできなかった。

この日の晩、京都の円山公園の料亭「左阿弥」で、舞妓さんを囲んでスキヤキパーティーした際の写真が残っている。
BOAC機乗客
左手に驚くほどの巨漢が写っている(※)。そして中央で三味線を弾いているのが、ラルフ・ポーター副社長だ。

そして3月5日が訪れた。いよいよ日本と別れを告げる時がきた。
朝から奈良で大仏を楽しんだ一行は、いったん大阪伊丹空港から羽田空港へフライトした。この日は羽田でBOAC機にトランジットして香港へフライトするというハード・スケジュールだった。

ところが一行が到着した羽田空港は大混乱の状態だった。
前日4日にカナダ太平洋航空の402便が着陸に失敗して激突炎上、乗員乗客72名のうち64名が死亡するという大惨事が起きていたからだ。
そこでラルフ・カーウィン....サーモキング社の経理を担当していた.....はミネアポリスにいる3人の子供たちを安心させるために電報を打った。
「私たちは無事。愛しているよ パパ。」

やがて一行はBOAC機911便に搭乗したが、搭乗をキャンセルした人もいた。
日本を舞台として翌年公開予定のジェームズ・ボンド映画「007は二度死ぬ」のロケハンのために来日していたスタッフたちだ。
プロデューサーのアルバート・ブロッコリハリ・サルツマン、監督のルイス・ギルバート、カメラマンのフレディ・ヤング(日本では「アラビアのロレンス」「ライアンの娘」の撮影で知られている)ほかスタッフは、この日香港経由でロンドンに帰国する予定だったが、彼らが楽しみにしていて見ることのできなかった「ニンジャの模範演技」に急遽招かれることになったため、このフライトをキャンセルしたのだった。

そして午後1時58分、BOAC911便(ボーイング707)は羽田空港を離陸した。
このときNHKのカメラマンがある映像を撮影している。
彼は墜落したカナダ太平洋航空402便の焼け落ちた残骸と、今まさに滑走路から飛び立とうとしている911便とを対象的に撮影したのだった。僕は30年も前にTVの特番でこの映像を見ている。
081030_boac_01
そして、そのわずか17分後の午後2時15分ごろ、BOAC機は富士山特有の複雑な乱気流に巻き込まれ御殿場市付近の高度5000mで空中分解して墜落したのだった。

乗員乗客あわせて124名の中に生存者はいなかった。
乱気流に飛行機がつっこんだ際の衝撃について、この事故を「マッハの恐怖」でとりあげた柳田邦男は「自動車が舗装道路からデコボコ道につっこんだときの減速ショックみたいなもの」と表現している。旅客機が耐えられる荷重が4G~5Gなのに対して、911便には7.5G以上の荷重がかかったことを書いている。

そもそもBOAC機911便には富士山の上空を飛行する必然性などなかった。
普通、香港にフライトする場合はIFR(計器飛行方式)によって伊豆大島経由で飛ぶというが常道だったからだ。提出されたフライトプランもそのようになっていた。ところがBOAC機の機長は、離陸の16分前にになって突然「予定変更。富士ー串本経由のVMC(有視界飛行)上昇をしたい」と申し出たのだった。
それが2日前に富士山を見ることができなかったサーモキングご一行様へのサービス・フライトだったのかは、永遠の謎となった。彼は過去にも「サービスのため」あえて富士山上空を飛ぶという「前歴」があったにもかかわらずだ。

僕が墜落現場となった富士山中腹の太郎坊を訪れたのは昨年の9月のことだ。

ここは富士山の登山道では一番マイナーな「御殿場口登山道」へと通じる県道152号に位置する。県道152号へは富士山スカイライン(県道22号)から入るのだけど、数年前の冬に訪れた時は冬季閉鎖されていたため現場にたどりつくことができなかった。
そんな152号に入って300mほど進み最初の大きな左カーブを曲がった左手に慰霊碑がある。

むかし霊山には必ず「天狗」が住み着いているといわれていた。

富士山にも「富士太郎坊」という天狗がいたそうで、「太郎坊」という地名もここから来ている。
英国旅客機遭難者慰霊碑
「天狗」といえば悪さが好きで、自由に空を飛びまわったり、ヤツデの葉っぱの団扇で強風を起したり、人を連れ去ってしまったり、というイメージが僕にはある。

じゃあ911便が墜落したのは霊山を見下ろしてを飛ぼうとした飛行機に怒った天狗の仕業なのか?
ついでを言えば「911」という数字は何かを予言してはいないだろうか?

なんてことを考えてしまったのには理由がある。
慰霊碑の脇には木製の慰霊碑があった。ここには「妙法 為BOAC機遭難の諸精霊」と墨で書かれていた。「妙法」「精霊」という古風な言葉と「BOAC」という横文字の組み合わせがとても印象的だった。当時最新鋭のジェット旅客機が、自然の猛威に打ち負かされた挙句、古風な言葉に慰められている。この不思議な違和感が、僕の頭の中で天狗とジェット旅客機とを結びつけていた。

人間の運命なんかわからない。
このディーラーたちは販売成績によって「ふるい」にかけられた結果、東洋への旅へ出ることになった。
もしあと何千ドルか売上が足りなかったら、彼らは助かったのかもしれない。
「賞品」をもらいそこなったディーラーたちはその後、既存の客先を引き継いで売上を拡大していったのだろう。

最後に慰霊塔の裏側にあった石板の文章を紹介しておく。

慰霊の碑
昭和40年3月5日午後2時18分、英国のボーイング707型
ジェット旅客機が、快晴のここ富士山太郎坊の上空ほぼ4000
メートルを飛行中、突如空中分解し、方2キロメートルにわ
たって飛散、乗客全員死亡という大惨事がおこった。
この碑は その遭難事故の犠牲者124人の御霊を末永く御慰
めし、併せて痛ましい航空事故が再び繰り返されること
のないよう、会員一同心からの祈りをこめて、ここに建立し
たものである。
昭和42年7月
英国旅客機遭難者慰霊碑建立奉賛会

※柳田邦男は「マッハの恐怖」でこの写真について触れている(掲載はされていない)。「(現場から発見された8mmフィルムには)よく太ったアメリカ人が登場する。間違いなく(左阿弥での記念写真に写っていた)アメリカ人観光団の一人だ(中略)ひときわ身体の大きなその男の姿は目だっていたので、すぐわかる」。
なおこの事故に関してはウィキペディアの「英国海外航空機空中分解事故」に詳しい。