「京都太秦物語」 -京都太秦の頃-

管理人のたわごと

お店のゲートのアラームが鳴ると同時に店を出ようとした制服姿の高校生が走り出した。
エプロン姿の僕は追いかけて店を飛び出す。
「万引きだぁ」とか「待て!万引き!」とか大声を上げながら商店街をダッシュする。
万引き犯に精神的なプレッシャーを与えるにはこれが一番だ。
中川デンキの角を左に曲がった犯人はスーパーにっさんの裏手の路地を走ってゆく。
やがて観念したのか、入り組んだ路地に入りかけたところで速度を落とした。
犯人の背中から飛びつくように羽交い締めにして一緒に倒れこむ。
「なめとんか、ボケ!」と怒鳴る。
こっちは息はゼイゼイ、心臓はバクバクいっている。
力技で押さえ込んではいるものの、とりあえず体が限界で動けない。
二人して路上でゼイゼイしている。

気づくと周囲に自転車に乗った人が5人ぐらい集まっていた。さすがは人情の街だ。
商店街を通行していた人たちが集団となって後ろから追いかけてきてくれていた。
「兄ちゃん、殴ったらあかん、殴ったらあかんで」と言われる。
「ハァハァ大丈夫です、ハァハァ殴ったりしません」
「兄ちゃん、コイツ逃げんよう店まで一緒に付いてったるわ」
「おおきに、すんません」

そんなのが、30代前半の僕の姿だったりします。
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9月12日のEmiさんの結婚式の後、自分が結婚した頃のこと、京都に住んでいた頃のことを色々と思い出しました。
それは僕に限ったことではありませんでした。コーラしか飲めない僕はC’darsのメンバー=地元組を乗せて車で帰ったのですが、とーるさんが杉田の白木屋で一杯やろうと言い出したのです。
普通だったら音楽やら何やらのバカ話に終始するのですが、この日はメンバー全員が妙に「しんみり」としておりまして、自分たちの結婚した頃の話を色々としたんです。
いかにお金がなかったか、いかにそんな中でやりくりしたか、よくもまあ妻子抱えて生きのびてきたよ、っていう話です(笑)。
「新婚旅行は京都から横浜だった」と僕が言えば、「俺なんか横浜から神戸だった」と言われる始末。
「とりあえず今が楽しければいいんじゃないか」というヨーさんの言葉は色々な意味で重かったです。

そんな僕にとって偶然の出来事となったのが、9月18日から映画「京都太秦物語」が東京公開されたことでした。
なぜなら、この映画の舞台となった京都・太秦の「大映通り商店街」こそ、僕が結婚した時代に働いていた街だからです。

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この通りは「京都のチンチン電車」として親しまれている嵐電(京福鉄道嵐山線)の太秦広隆寺(うずまさこうりゅうじ)駅(国宝第一号となった弥勒菩薩で有名な広隆寺の門前)から、次の帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅までの区間にあります。嵐電の線路と北側を平行するのが三条通、そして南側が大映通り商店街です。

この商店街の近隣には東映京都撮影所(東映映画村もこの敷地)と松竹京都映画撮影所があります。
かつては大映京都撮影所があり、ここでは「羅生門(ヴェネツィア国際映画祭グランプリ)」「雨月物語(同銀獅子賞)」「大魔神」が撮影されました。世界的な賞賛、それに対する地元民の誇りがそのまま商店街の名称となりました。僕の職場に「大魔神」のフィギュアがあるのもそれが理由です。

もっと昔には千恵蔵プロダクション撮影所(三条通沿いの材木置き場がそうだったと教えられたことがあります)、ちょっと離れていますが僕の住んでいた蚕ノ社(かいこのやしろ=難読地名だらけですね)駅の近所には戦前まで日本電波映画やJ.O.スタジオ(東宝の前身)なんていう撮影所もあったそうです。
どれだけの映画撮影所が京都にあったかについては「京都ウエストサイド物語」さんの「京都太秦映画ストリート」に詳しいです。そう太秦近辺は歴史的にも「日本のハリウッド」と呼ばれていたのです。

さて先月の記事でこの作品については触れましたが、実際にはどんな映画かは予備知識がないままでした。

そんな中、長女を連れて銀座の「東劇」までこの映画を観に行きました。

映画館のロビーにはロケ風景の写真が飾られていました。その中に監督の山田洋次さんを中心としたスタッフやキャストの集合写真が飾られていて。それを見ているうちに驚きました。見覚えのある方が何人かいたのです。もちろん商店街の方々です。

「もしかしたら、知っている方々が出演しているのかもしれない」
期待に胸を膨らませながら、映画を観たのです。

舞台は京都太秦の大映通り商店街。クリーニング屋の娘で立命館大学の図書館に勤める東出京子(海老瀬はな)と、豆腐屋の息子でお笑い芸人を目指している梁瀬康太(EXILEのUSA)の恋物語です。

見覚えのある風景が視覚的、聴覚的にもたくさん出てきました。
広隆寺から嵐電の軌道を渡って商店街へと下ってゆく坂道、寄進された石材が有名な俳優だらけの三吉稲荷、三条通を経て東映撮影所の正門へと続く路地の踏切は長女とレンタル屋に行く途中にリアル新撰組と出会った場所です。仁和寺の門前の静寂な風景、嵐電の鳴滝~宇多野間の美しい車窓の風景、立命館大学の等持院と面した校舎、ここを渡れば次女が生まれた産婦人科のある帷子辻駅前の踏切、「ベストオブくるり」の歌詞カードにも使われていた下鴨の飛び石、車折神社(くるまざきじんじゃ)、西大路三条駅(予告編でもチラっと写っている)、「ウォーン、バッタン、バッタン、シャーッ」と走るチンチン電車の音。

驚いたことにには、このクリーニング屋さんも豆腐屋さんも実際に実在するお店(東出クリーニング店、太秦豆腐店やなせ)を使って撮影され、しかも両方のお店のご店主夫婦が、主人公たちの両親役で出演していたのです。
それどころではありませんでした。定食屋のつたやのおばちゃん、「ファイト!テレビ!」って人形の看板が一日中叫び続けていた中川デンキの中川さん、そして映画関係の書籍が充実していた本屋「たぬき堂」のご店主の御舘(みたち)さんも出演しているではありませんか。ご店主のバックで本棚を整理しているのは….懐かしい店員の角谷さん。この方にもお世話になったなぁ~。
そんな角谷さんに至っては主人公たちの会話の中でもネタにされていました。
お笑い芸人の資質で主人公が口論になったとき、ヒロインの海老瀬のセリフに、
「ほら、たぬき堂の角谷さんは無口で真面目な人やろ、それがはたから見ると、妙におかしい」とあったのには笑いました。

そして僕の勤めていたCDショップのお隣のおもちゃ&タバコ屋「フジイ」の藤居さんも出演していました。万引きの少年を「こらぁ」と言って店を飛び出すシーン。そして謝罪にきて土下座する親子に「もうそのへんでええから」とセリフもありました。それが何とも自然体の演技だったのに驚きました。

藤居さんは、もう70才を越えたでしょうか。とても温かい方で「日本のお父さん」的な一徹さもある方です。
京都のお店は間口が狭いので、ピーク時には店頭の自転車の整理が必要でした(今ではStreet Liveの準備段階でこの能力を活かしています)。そんな時に整理しながらよく世間話をしたものです。そして藤居さんとこへ休日に長女を連れておもちゃを買いに行ったりしました。娘の最初の誕生日のプレゼントを何がいいか尋ねたら、「このおもちゃは丈夫でええよ」と薦められたのがイワヤ玩具の「こいぬのドン」でした。これは今でも動いていますし、娘は「きんちゃん」という名前をつけて宝物のように大切にしています。

今の仕事をはじめてから京都へ帰省した際、自分の勤務していた会社と藤居さんのところへ挨拶にいったのですが、その時も「宗澤君、あんじょうがんばりや!」と喜んでくれたものです。

映画を見たあと、藤居さんに電話してみました。
藤居さんは映画を観にいったことをとても喜んでくれて、撮影時の話などもしてくれました。
山田洋次監督が「自然のままでいいですから、適当にセリフを言って下さい」ということで、脚本はなかったそうです。
「もうそのへんでええから」というセリフが藤居さんらしいなと思っていたのですが、あれは完全にアドリブだったということです。
そのシーンではずいぶんカメラを引いていて、店のずっと外側から撮影しているのですが、これも監督の配慮だったようです。
山田洋次監督作品に出演なんて凄いですね」と言うと、
「いやぁ~えらいことになりましたわ」と頭をかいていました。
この映画はベルリン国際映画祭のフォーラム部門出品が決定し、香港国際映画祭「Master Class」招待作品となったそうです。本当に凄いことになりました。

人間の人生には「原点」と言える場所がいくつかあります。決してそれはひとつではありません。
僕の場合は上大岡であり、大阪の我孫子でもあり、そしてこの商店街も大切な「原点」です。

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