山が二つに割れた話 -狩野川台風と筏場(蛇喰山)の大崩壊
いまぼくは「狩野川台風に匹敵する大雨(気象庁発表)」と予想されている台風19号の来襲を待ちながらこの文を書いている。6年ほど前に現場に行き、半分ぐらい書き上げながら、何となく放置してしまっていた記事だ。こういう「放置記事」は山ほどある。こんな時だからこそ最後まで書き上げてみよう。
さて、いくらそれが史上最悪の台風だとしても「山を真っ二つに切り裂く」なんてことができるのだろうか?
伊豆スカイラインの冷川料金所から県道12号と59号を乗り継いで天城山塊へと入り込んでゆくと「筏場(いかだば)」という集落がある。
下田街道(R414)を湯ヶ島から県道59号に入ってもいいが、こちらからだと峠を越えることになる。天城からの清流が美しいところで、日本でも有数のわさびの産地でもある。
こんなのどかな場所に「筏場の大崩壊」と呼ばれる世界的に見ても稀な現象が発生したのは、1958年(昭和33)9月26日のことだった。
それより5日前、グアム島近海で発生した台風22号(狩野川台風=アイダ)は、急激に発達しながら日本に迫ってきた。沖ノ島付近で9月24日に中心気圧877ヘクトパスカルという当時の観測史上最低気圧の記録を更新し、風速百メートルという恐るべき記録を残している。
さて、9月26日の21時、台風22号は伊豆半島の南端を通り過ぎた。
すでに台風の勢力は弱まっていたが、この前後の観測記録では石廊崎で最大瞬間風速46.3m、大島では50.2mを記録している(気象庁記録)
しかし、狩野川台風がもたらした甚大な被害は、風ではなくむしろ雨だった。
21時、湯ヶ島での1時間の雨量は120mmを記録し、天城山系を中心に1200か所で土砂崩れが発生、狩野川上流では各所で鉄砲水と土石流が発生した。
筏場(いかだば) はそんな狩野川の上流、大見川沿いにある集落だった。
水が清ければ清いほど、わさび栽培に向いているのだという。
水源からわずか3km、天城山系から流れ落ちてくる清流はこの地にわさび栽培という農業をもたらしたが、それは自然の猛威と裏表だった。
猛烈な雨は鉄砲水となって川と周囲のわさび畑を洗い流した。本来であれば県道に接する地点で川は北東の方向へと流れを変えるのだが、増水した川は堤防を決壊させ、そのまま蛇喰山(じゃばみやま)の方向へと流れていった(「蛇」と付く地名には、地盤が脆いという意味がある)。
解説版にはこうあった。
筏場大崩壊地域周辺(蛇喰山一帯)は天城山カワゴ平の噴火(今から約3000年前)による軽石質火山灰の堆積土で覆われており、非常に脆弱で崩れやすい特性を持っています。
建設省沼津工事事務所による解説板より
狩野川台風による鉄砲水はこの山を分断し、倒れた木々とともに崩れた土砂が土石流となって下流に流れ、大きな災害となったのです。
立派な解説版ではあるのだけど、脆弱な地質なだけで山が崩壊することなどあるのだろうか?
その答は、伊豆市教育委員会によるもうひとつの解説版に書かれていた。
また東側筏場川沿いには古くから神代杉発掘の洞窟が無数に残っていた。(中略)堤防を決壊した鉄砲水が洞窟に流れ込み、二十六日午後八時ごろから二十七日未明にかけて、ついに山は分断されて様相は一変し現代のすがたとなったのである。
伊豆市教育委員会解説版
なるほど、山に洞窟に流れ込んだのであれば、その力で山自体が崩壊することもありえるかもしれない。ただ「神代杉の発掘」っていうのは何だろう?
【神代杉(じんだいすぎ)】水中・土中にうずもれて長い年月を経過した杉材。過去に火山灰の中に埋もれたものという。青黒く、木目が細かく美しい。伊豆半島・箱根・京都・福井・屋久島などから掘り出され、工芸品や天井板などの材料として珍重される。
デジタル大辞泉
なるほどそういうことか。いわゆる考古学的な「発掘」ではなくて「採掘」ね。こういう杉を掘り出して流通させていたということのようだ。おそらく埋もれていた大量の神代杉は、それ自体が地質を脆弱にしていたんだろう。
結果として山は真っ二つに割れてしまった。
これは凄い。本当に山が真っ二つに割れてしまっている。
これ自体が世界でも珍しい現象なんじゃないだろうか。「天然記念物」になっても不思議はなさそうだ。
だけど残念なことに解説板から見える風景には、往年の「崩壊」の迫力が全く感じられない。
鬱蒼とした林を見て「ここが大崩壊跡だ」と言われてもどうもピンとこない。
林の向こうをのぞき込んでみても「わさび畑」の一部が見えるばかりだ。
それならばと、集落をやや天城山側へと南下して、崩壊の全体像が見えそうな場所で撮影してみたが、これもリアリティが感じられない。
ううむ、どうも納得できないなぁ。そこで地図を再確認してみると、崩壊現場の北側、つまり鉄砲水が山を崩して突き抜けた先(冷小川=ひえおがわ側)からだと、何となく崩壊現場に行けるような気がしてきた。
そこで車でぐるりと大移動してみた。地図では冷小川沿いの道は狭いように思えたけど、なんなく車で進入することができた。
運のいいことに、冷小川側からだと崩壊現場と思われる方向に一本の小道があった。路肩に駐車して恐る恐るその道を進んでみる。
すると「らしきもの」が眼前に飛び込んできた。
こういう時に、自分のテンションはマックスとなり、アドレナリンが噴出するのを感じる。さらに歩みを進めたら…..おーあるある。
やや広がりのある場所に出たら、往年の崩壊のリアリティを思いきりアピールする崖が眼前に入ってきた。
なぜ「崖」を眺めてテンションが上がっているのかよくわからないトコロだが、世界でも珍しい自然現象が60年後の今日もこうして垣間見れる事への感動に他ならない。中でも圧巻だったのが、こちらの山(崖)だった。
これを見た時、僕はなぜか赤塚不二夫のマンガに登場した「ダヨーンおじさん」を思い出していた。
まるで自然が「覚えているかい?ダヨーンおじさんだよ」と僕に語り掛けているようだった。
さて本来ならば、この記事も「これでいいのだ」というバカボン的エンディングでいいのだけど、もう少し書いてみよう。
崩壊前の現場写真…という事であれば、国土地理院の航空写真が頼りになる。狩野川台風以前に筏場を撮影した航空写真がないかと検索したら。あったあった。
わかりやすく河川と道路とを着色してみた。
下の川が大見川(水色)だ。間に道路(黄色)があって、上の川が冷小川だ。
大見川のΩ(オメガ)カーブと道路がそれに伴ってカーブしている地点の真上が「蛇喰山」だ。
北を流れる冷小川にもやや緩いΩ(オメガ)カーブがあるけど、何枚もの比較写真では、このカーブが目印としてわかりやすい。
そしてお次は1962年の同じ場所。狩野川台風による大崩壊から4年後の写真となる。
これも河川と道路を着色してみた。
蛇喰山の緑が消滅してむき出しの土になっているのがわかる。南側の大見川からはオメガカーブが消え、道路とともに緩やかな線形を描いているのがわかる。
そしてこちらはGoogleさんの現在の衛星写真。
崩壊現場はすっかり緑に覆われている。
つまりこういうことなんだと思う。
狩野川台風以前の大見川は筏場の集落沿いを蛇行するように流れていた。台風による鉄砲水はオメガカーブを曲がり切れずに堤防を突き破り(あるいは越水し)、さらに道路も越えて蛇喰山側へとまっすぐ流れ込んだ。この山には神代杉を採掘する洞窟が無数にあり、そこに流れ込んだ水が山塊に内部から急激に圧力をかけたため、元来脆い地質の山はあっさり崩壊してしまったというわけだ。
これは解説板の近くで見た大見川のコンクリート堤防。
きっと台風の直後に整備されたものなんだと思う。
蛇喰山を突き破った鉄砲水は土石流となって、下流の修善寺町や大仁町に襲いかかった。 狩野川流域だけでも死者・行方不明者853名に達したとWikipediaには書かれている。
国道414号で修善寺や大仁付近を通ると、妙に整然と区画整理が行われている地域が何か所もある。そういう場所は狩野川台風で被害が甚大だった場所に他ならない。今回の台風19号でこのような悲劇がない事を祈りつつ、記事を終えることにします。
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