下山事件とやなせたかし
(オチのない話)
実はやなせたかしさんという人は、下山事件発生当時、総裁が失踪した三越本店に勤務していたことが確認できる、唯一の方だった。
昭和24年7月5日午前9時35分頃、日本橋にある三越本店の南東側にある駐車場(三越南口)に運転手つき公用車をとめさせた国鉄総裁下山定則は、「五分位だから待って居てくれ」と言い残したまま店内へと入っていった。
(総裁が失踪した駐車場のあった場所。現在は建物が南東側にせりだしているため、当時の面影はない)
夕方五時までその場で待ち続けた大西運転手は....この感覚は現代では信じられないことだけど上官の命令には絶対服従という精神を叩きこまれてきた時代ならではの感覚である....たまたまラジオニュースで「下山総裁行方不明」の報を聞き、店内を探し回ったのち国鉄本社へと連絡を入れている。
(捜査報告書に書かれた「三越南口自動車駐車状況一覧表」(出典「資料 下山事件(みすず書房 1969)」)
たちまち三越には警視庁捜査一課の捜査員が急行した。大西運転手に対しては事情聴取が行われ、日本橋署の応援を得ての全館捜索が行われた。
また、店内待機を命令された430名の従業員および貸事務所の代表に対しても事情聴取が行われた。事情聴取は深夜まで行われたという。
総裁が常磐線の綾瀬北千住間で轢死体となって発見されたのは、時計の針が7月6日になって間もなくのことだった。
現在は絶版になっているようだけど、やなせたかしさんの自伝に「アンパンマンの遺書」というのがある。
僕はこの本を高知アンパンマンミュージアムで買った。今回やなせさんの訃報を受けて自宅内を全館捜索したのだけど、とうとう出てこなかった。
それによれば、昭和20年代にやなせさんは三越の宣伝部に勤務していたと書かれており(ウィキによれば昭和22年~28年)、あの有名な包装紙「華ひらく」に書かれている「mitsukoshi」のロゴは自分が書いたものだと書かれていた。
今でこそ百貨店の宣伝部門やデザイン部門は、販売の前線である店舗とは別棟に設置されることが多いけど、当時はそうではなかったはずだ。
相変らず戦後の物資不足は続いており、三越本店の建物もところどころに貸事務所が入っているような状態だった。特に6Fフロアは全部貸事務所だったことが当時の捜査報告書から伺える。
僕は宣伝部も本館にあって、やなせさんも事件当日の現場の混乱を目の当りにした430人のうちの一人ではないかと確信した。
今から10年も前になるが、僕は当時のことを聞きたくてやなせさんの事務所に手紙を送ったことがある。
もちろん返事は来なかった。
ディスカッション
コメント一覧
戦後は違うと思いますが、戦前、戦中はソニーも事務所を三越に置いていたと思います。因みにソニーの井深氏は、東宝の母体であるPCLの技術者だったこともあります。ソニーPCLには、20年くらい前までは、旧PCLの高齢技術者がいたそうです。映画史的には、PCLはJOと合併し、東京宝塚劇場に吸収されて東宝になったとされていますが、実際はPCLという組織は残っていたようです。この辺は一度良く調べてみたいと思っています。
さすらい日乗さん
遅レスすいません。
井深さんがPCLの技術者だったとは知りませんでした。ソニーは軍事テクノロジーから発展したのだとばかり思っていましたが、映画(サウンドトラック?)からも技術を引き継いでいたんですね。
ソニーがあったのは三越ではなく白木屋の三階でした。もちろん東京通信工業の時代です。