鈴木市蔵氏死去

下山事件資料館

実はこのblog、僕が運営している別サイト「下山事件資料館」とも共有しているので、珍しく本日はそちらの方の記事を書く。

今日の神奈川新聞朝刊(朝日では昨日の夕刊だったらしい)に元国鉄労働組合副委員長である鈴木市蔵氏の訃報が掲載されている。

鈴木市蔵氏
(すずき・いちぞう=元国鉄労働組合副委員長、元参院議員)
1月29日午後11時30分、慢性腎不全のため埼玉県朝霞市の病院で死去、
95歳。(以下省略)

僕の購読している神奈川新聞では下山事件うんぬんなんてことは特に書かれていない(そういう記事を書くとしたらたぶん朝日新聞かな)。しかし事件に関する書籍を読んだ人ならば、必ずこの名前を目にしているはずだ。

まずは「下山事件」について簡単に説明しなきゃいけない。
「下山事件」とは、昭和24年7月5日午前9時30分ごろ、国鉄総裁の下山定則が東京日本橋の三越本店から謎の失踪を遂げ、翌6日の午前零時すぎ、常磐線の北千住と綾瀬駅間において轢死体となって発見されたという事件だ。

当時の国鉄は敗戦後の痛手から立ち直るために、余剰人員9万5千人の人員整理を余儀なくされていた。国鉄の労働組合はそれに反対し、国鉄当局と真っ向から対立していた。

鈴木市蔵氏はこのとき労働組合の副委員長だった。当時委員長がフランスに出張していた関係で、実質的に組合側の代表者として下山総裁ほか国鉄当局と交渉したのだった。

たとえば7月2日、下山総裁が国鉄労働組合との話し合いの打ち切りを宣言した瞬間にも、鈴木氏は組合側の代表者として交渉の現場にいた。そして7月4日に第一次人員整理者のリストが国鉄当局から発表される。

そしてその翌日、事件は発生したのである。

事件発生当初から、誰もが総裁の死は労働組合と背後にある共産党の犯行と考えた。いっぽう警視庁捜査一課が出した結論は総裁の失踪前の言動や行動に不可解な点が多く「自殺」だった。その後アメリカ軍の諜報組織による犯行説(共産党を陥れるための)が有力となり、現在にいたっている(詳しくは僕のサイトを読んで頂ければいいので、ここでは省略する=宣伝)。

僕は「下山事件資料館」を運営してゆく中で、氏がいまだご存命で生活の困難にあわれていることを知った。そして有識者の方々により「鈴木市蔵さんの介護を支援する会」が発足していることを知り、思想や立場を越えた形での支援をサイト内で呼びかけてきた。

僕自身が特定の思想や立場に身をおくことをしない人間なため、文面はこんな感じだ。
下山事件とも関係の深い鈴木市蔵氏に関するお願い
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僕もぜひ氏とお会いしたかったのだが、ご本人の体調も思わしくなく、また老人性の痴呆症が進行していたため、差し控えさせて頂いていた。ただ昨年「支援する会」の代表の吉川氏にメールで近況を問い合わせている。「これまで住んでいた家を貸家にすることができたため、最低限の老人ホーム入居費等はどうやらまかなえるようになったが、年金がないため、今後も支援を続けてゆく」とのことだった。ひとまず安心したため、その内容もUPしている。

そして1月29日、氏はあの世へと旅立たれた。

事件後、鈴木氏は国鉄を追われ、その後参院議員にもなったのだが、肝心の共産党からも除名処分を受けている。そうした経緯もあって老後の年金が大変僅少だった。時代の荒波に押しつぶされたという意味においては下山総裁も鈴木市蔵氏も同一だったといえるだろう。

そして「同一だ」と思う視点から歴史は語ってゆくべきだと、いつも考えている。

謹んで氏のご冥福をお祈り致します。

下山事件資料館