宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [1] -菩提寺さがし-

ぶうらぶら,歴史の切れ端,管理人のたわごと

昔は思いつきで無計画な一人旅に出るのが好きだった。
宿なんてお盆であろうとゴールデン・ウィークであろうと何とでもなる。
大事なのは「何をしたいか、何をするか」を見つけられるかどうかだ。

お盆は家でゴロゴロしていようと思っていたけど、漠然と「行ってみようかな」と考えていたのは岩手県の雫石、盛岡、宮古あたり。
キーワードは「雫石事故」「米内光政」そして「鳥取春陽」だ。

8月13日、朝5時前に起床してしまったのがコトの始まりだった。
今から行けば仙台より北の方まで行けそうだと考え出すと、なんだか気持ちが高揚して寝るに寝れなくなってしまった。
そそくさと旅支度をし、6時前に家を出て、何はともあれ北を目指すことにした。

ところがどっこい、こんなに東北道が面倒くさい道とは知らなかった。
浦和料金所手前の事故渋滞、蓮田SA前後の自然渋滞、久喜IC前後の自然渋滞という具合。ようやく埼玉を脱出したと思ったら、大谷SAの自然渋滞、那須付近の渋滞と続くようだ。よっぽど北関東自動車道で群馬方面に逃げようかとも思ったけど、そこを我慢して先へ進むことにした。

国見SAで渋滞表示板を見る。仙台から先で真っ赤っかのようだ。
さすがにここで盛岡へ行く気が萎えてしまった。じゃあどこへ行こうか?

そこで浮かんだのが「柳津(やないづ)」だった。

「宮城県登米市津山町柳津」という新しい地名はどうも自分にはしっくり来ない。
いまだに「宮城県本吉郡津山町柳津」の方が慣れている。
石巻からも南三陸町からも内陸に15kmほどの距離に位置する北上川沿いの小さな町だ。

ここは自分にとっては第二の故郷と言える場所だった。
母方の祖父である小野寺五一(おのでらごいち)の出身地であり、母が戦時中に疎開していた所だった。

五一は一人息子だったが、就職して東京に出ていってしまった。
そこで五一の姉が婿養子をもらって柳津の家を継いだのだった。
古風な言い方をすれば、柳津が「本家さん」、そして我々が「東京分家」ということになる。
だけど、その「本家さん」も他所へと越してしまっており、母や叔父の世代は辛うじて交流があったようだが、現状では音沙汰を尋ねる事も困難になっている。
そんなことかから、自分はここを訪れたことは一度もなかった。

(柳津付近)

ナビに「柳津」と入れてみて驚いたのは、驚くほど簡単に行けるということだった。
東北道から仙台南部道路、東部道路、三陸自動車道と乗り継いで「桃生津山」というインターで降りる。
柳津大橋
インターからはものの5分もかからなかっただろう。柳津大橋で北上川を渡れば、そこが柳津だった。

「さて、どうしよう」と自問自答する。
柳津に来たことは来たけど、本家さんがどこにあったのかも知らない。もしあるのならばご先祖様の菩提寺やお墓にも行ってみたいのだけど情報はない。
祖父の名字「小野寺」は東北ではありふれた名字だし、最後にここに住んでいた本家さんの名前も知らない。
母にはもはや「記憶」がないし、二人いる叔父のうち一人は介護施設に入ってしまったから連絡の取りようがない。
もう一人の元気な叔父は若すぎて柳津とは縁があまりなさそうに思えた。

とりあえず手がかりを求めて図書館へ行ってみる事にした。

一つだけ「道標」と言えるものがある。
僕の曽祖父は小野寺新六(しんろく)というのだけど、小学校の先生をへて、このあたりが「柳津町」と呼ばれていた時代に町長をしていたらしい。
近年まで「ほんまかいな」ぐらいに思っていたのだけど、数年前にWikipedia「柳津町(宮城県)」の記事で曽祖父の名前を発見して驚いた。
あるいはこれが手がかりになるんじゃないかと思ったのだ。
小野寺新六
(小野寺新六)

雄大な北上川沿いの堤防の上を5kmほど北上する。「東北の明治村」と呼ばれる登米(とよま)町に「登米市立登米(とめしりつとよま)図書館」というのがあった。
司書の方に郷土史の本を尋ねてみたら、合併前の1989年頃に出版された「津山町史」という本を教えてくれた。
「前編」「後編」「資料編I」「資料編II」という分厚い4冊の本。ボリュームの多さに期待しながら探してみると….あったあった。

曽祖父は大正15年7月3日から昭和4年6月1日まで柳津町の助役、同日から昭和8年5月31日まで町長をしていたことがわかった。
それだけではなかった。
驚くことに「後編」には「先人の足跡」と題して書かれた柳津人物伝の中に、曽祖父のことが3ページにわたって書かれていた。
小野寺新六
(「津山町史」に掲載されていた若い頃の曽祖父。実家の仏壇にあるものと多分一緒のもの。若い頃はバイオリンをギコギコ鳴らすようなモダンな人だったらしい)

曾祖父が「津山町史」に掲載されているってことは、東京では親族の誰も聞いたことはないはずだ。
それはそうだろう。この本が出版された時点では、語れる人はすでに亡くなっているか…あるいは2007年に亡くなった祖母は何か聞いていたのかもしれないが….とにかく、こういう事に興味を持つ親族もいなかった。誰もが日々の事に忙しくて「自分はどこから来たのか」を思い描く余裕などなかった。

僕はこの人物伝によって、昭和19年に亡くなった曽祖父の事を、初めて知ったに等しい。

明治7年生まれだということ、志津川小学校高等科を卒業した後に教職についたこと。教師生活は30年以上にわたったこと。家は精米業をやっていたこと……高祖父が兵記(ひょうき)という名前だったことは、この本で思い出したぐらいだ。

すでに時計は14時を過ぎていた、自分にはあまり時間がなかった。
何とか今日中にお墓をさぐりあてて、明日は気仙沼を越えて宮古あたりで一泊しようぐらいに考えていた。
今から柳津へ行ってコミュニティハウスか何かで古老をつかまえて、本家さんの家があった場所と墓所を確認しようぐらいに考えていた。

きちんと最後まで読むのももどかしく、とりあえず附箋をつけたページを司書さんにコピーしてもらい、後でじっくり読もうと考えたのは大きな間違いだった。
最後のページに「墓は明耕院にある」と書かれてあるのを見落としたまま、僕は図書館を飛び出していった。

ところが柳津にはコミュニティハウスがない。
お隣の陸前横山までが登米市なのでそこへ行って尋ねてみるが「柳津のご老人はここまで来ない」と笑顔で返された。
時間がないけど落ち着け落ち着け。それならばお寺さんを当たってみよう。

確か小野寺の家は曹洞宗だった。祖母が永平寺のポスターを部屋に貼って「行きたい」という事を言ってたな。木魚がやたらと大きいんだよね。
なんて事を考えながらR45を柳津へと戻ると、ずばり曹洞宗の「明耕院(みょうこういん)」というお寺があった。
明耕院
(柳津明耕院)

何となく「ここじゃないか?」という気持ちがあったのだけど、まず柳津の町長をやっていた小野寺新六の墓があるかどうかを尋ねてみた。
ところが、今日はあいにく住職さんが出払っているとのこと。
「先代が生きていたら、わかったかもしれないんですけど….」と申し訳なさそうな奥様。とりあえずメモをお渡しして確認していただくようにお願いした。
奥様曰く「この山の裏側に福田寺(ふくでんじ)というお寺があります。そこも曹洞宗ですので、ぜひ行かれて下さい」とのことだった。

この時、門前にある古ぼけた石碑….明治41年本堂建立の寄付者名一覧….に高祖父「小野寺兵記」の名前が刻まれていることなど、知る由もなかった。

福田寺は、いま通り過ぎてしまった所にあったようだ。数百メートルR45を戻って、そのお寺を尋ねてみる。
福田寺
(柳津福田寺)

こちらも住職さんは不在だったので、後で電話を頂こうとメモだけお渡しした。
「ああ、明耕院さんへは行かれたんですね。もう一軒、黄牛という所に音声寺(おんしょうじ)さんというお寺があります。そこも曹洞宗ですよ」と言われた。

曹洞宗ってマイナーな宗派だと思っていたのだけど、ぱっと見ただけでも柳津近辺に3つもお寺があることに驚いた。
どうやら東北は曹洞宗が強い土地柄のようだ。
実は福田寺には、先祖を辿る上で決定的な「物証」があったのだが、それを知るのはずっと後の事だ。

言うまでもなく僕はボイトレ学校の経営者だから「音声寺だったら最高だろうな」と思っていた。
柳津の町を通り抜け、再び登米町へと向かう北上川の堤防を進む。
「黄牛」という集落で車を進めた。
音声寺
(音声寺 -Google Street Vew-より)

音声寺のご住職には本当にお世話になった。
所蔵されていた「津山町史」を本棚からひっぱり出してきて、読みながら一緒に調べて下さった。
「小野寺新六」の人物伝のページの最後(めくった次のページ)に「墓は明耕院と書いてあるじゃないですか」と気付いて下さったのもご住職だ。
全く恥じ入るばかりだ。

庫裏の玄関口でそうしているうちに、訪れてきたご老人がいた。
住職が「町長さんだった小野寺新六さんっていう人の家はどこでしたか?」と尋ねると、あっさり「それはTさんのところでしょう」と答えた。
「なーんだ、Tさんの所かぁ」と住職。「Tさんと言うんですね」と僕。ここでようやく本家さんの当主の名前が「T」という名前であることを知ったのだった。

住職は、小野寺の本家さんがあったと思われる場所を地図に書いてくれた。
ありがたいことに、詳しそうな方に電話もしてくれて、現在のTさんの消息まで確認してくれた。
残念ながら、消息はわからないとのことだった。

「お向かいに"すえなが"というスーパーがあります。ここで尋ねれば詳しい事をご存じでしょう」とも教えてくれた。

「よく御存じですね」とご老人に言うと「なあに昔は郵便配達じゃった。柳津の家は全部知ってる」。
本当に奇跡じゃないかと思った。
そして21世紀の柳津では戦前の町長の名前を言ってもわかるわけがなく、「Tさん」で尋ねればよいのだという事も理解した。

最後にお礼を言うと、住職はこう言われた。
「実は私の祖父も昭和の初めに柳津町で助役をしていたことがあるんですよ。小野寺新六さんのお手伝いをしていたかもしれません」。

音声寺を出るときには、すでに夕方の5時になろうとしていた。
北上川の河川敷に車を停めて、登米町のビジネスホテルに予約の電話をする。
柳津に来たときは一泊したら翌日は宮古あたりまで行ってみるつもりだったけど、自分の中で考えが変わっていた。

柳津は自分を温かく迎えてくれている。何か目に見えない糸に導かれている気もする。
ここでじっくり二泊して、先祖探しと本家さんの消息もつかみたいと考えたのだ。

ああ、その前に最初の二つのお寺に菩提寺が判明したことを電話しなくちゃいけない。

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [2]へ続く