宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [2] -戸籍、本家跡、菩提寺-
翌8月14日は、朝から登米市の市役所を目指した。
ホテルに滞在中「はたして戸籍でどこまでご先祖を辿ることができるのだろう?」と思ったからだ。
いま思うと最も重要で、一番最初にやらなきゃいけないことだった。
(登米市登米町のビジネスホテルの窓からみた田園風景)
登米市の市役所は柳津とは反対方向に20分ほど行った所。広大な田園地帯を進んでゆく。
柳津とはずいぶん風景が違うなと思った。
柳津という所は、気仙街道と一ノ関街道が交わる交通の拠点で、北上川という水運にも恵まれた場所ではある。
だけど、山が川の近くまで迫っており、挟まれた狭い場所に家が密集している。
(柳津の航空写真 by Google Map)
田畑があることはあるけど「広大な田園地帯」というには程遠い。
そもそも農業には不向きで、商業向けの立地だったんじゃないだろうか。
そんな事を考えつつ、市役所にたどり着いてから重大な事に気づいた。
戸籍を取り寄せようにも祖父の本籍地の住所なんて知らないということを。
「しまった、先に柳津に行って、昨日教えられた場所の地番を確認しておくんだった」と後悔する。
だけどよくよく考えてみると、祖父の戸籍に記されている地番と現在の地番が必ずしも一致するとは限らない。
そういう場合はどうすればいいのだろう?
祖父の子供は4人いるのだけど、次男のS叔父は数年前に亡くなっている。
一番詳しいのは長男のH叔父だけど、現在は介護施設にいるため連絡するのが極めて難しい。
私の母は、もはや昔の事はわからなくなってしまっている。
こうなりゃ最終手段だ、藁をもすがる想いで一番下のK叔父に電話する。
堅物が多い親戚の中では、一番頭の柔らかい人で、自分は昔から何かと人生の相談に乗ってもらっていた人だ。
あんまり柳津とは縁のなさそうな雰囲気の人ではあるが、近年家を建て替えたばかりだから戸籍謄本ぐらいは持っているかもしれない。
「今どこにいると思います?何と柳津にいるんですよ。実は一生のお願いがあるんですが、五一っつぁんの柳津の本籍地を調べてもらえませんか?」
「うん、わかるよ。宮城県本吉郡津山町柳津〇町〇番地だよ」
「えっ、なんで覚えているんですか?」
「何となく覚えているんだよね~」
普段は下らない冗談しか言わないK叔父が、この時ぐらい神に思えた事はなかった。
早速、申請書を書いてみる。
「対象者との続柄」みたいな欄があるので「祖父母」にチェックを入れる。
これは後で知ったのだけど、直系の親族の戸籍でない限り、委任状が必要なんだそうだ。
自分は小野寺姓ではなく宗澤姓で申請者名を書いているわけだけど、特に直系であることの証明を求められることもなかった。
年輩の手馴れている雰囲気の職員さんに、こうお願いした。
「先祖を調べてに来ています。さかのぼれる所までさかのぼって頂けますか?」
「だとすれば生き死にも含めて出したらいいですね」
よくはわからないけどお任せしますというつもりで、
「はい、お願いします」と答えた。
(登米市役所にあった放射線量速報モニタ)
そこからはスリルの15分だった。一体何が出てくるのだろうという期待と興奮だ。
「お待たせしました」と渡されたのは4通もの分厚い戸籍だった。担当の職員さんが「神」にみえた。
母:宗澤恭子(昭和13年生まれ)
祖父:小野寺五一(明治32年生まれ)
曽祖父:小野寺新六(明治7年生まれ)
高祖父:小野寺兵記(嘉永元年生まれ)
そして兵記の戸籍には「亡父 小野寺傳右衛門」とあった。
ウィキペディアで嘉永元年を調べてみたら1848年だ。
ひと世代30年と計算すると、傳(伝)右衛門は1818年ぐらいに生まれたことになる(実際には1808年)。
まさか15分で200年も遡れるとは思いもしなかった。まるで夢のようだ。
「伝右衛門とかすげー」と思った。
こんな簡単に200年も辿れるならば、なぜもっと早く調べなかったのだろうかと後悔した。
再び柳津へと戻る。
お次は「本家さん」の場所確認だが、その前に柳津小学校を訪れてみた。
曽祖父はここに通い、随分長い間、教師としてここで教えていた。
町長の時に校舎の新築を行ったと「津山町史」には書いてあった。
祖父も明治の終わりから大正の初めにかけてにここに通った。
生前「自分の父親から授業を受けるぐらい嫌なことはなかった」とこぼしていた。
昭和20年の4月、柳津に疎開していた母はここで入学式を迎えた。
2学年ほど上に「ちよちゃん」という女の子がいて、母の事を実の妹のように可愛がってくれた。
東京の家族から一人引き離された母は寂しかったのだろう。しばしば「ちよちゃん」の家へ遊びに行っていた。
たとえ「ちよちゃん」が不在でもその家で一人遊んでいたのだという。
昭和36年に母は父と結婚する。
ある日、父は会社の同じ課の同僚と世間話をしていて、その人の奥さんが偶然にも柳津の出身だという事を知る。
「ちよちゃん」その人だった。
偶然とか運命というものは、小説よりも途方もない。
昨日教えてもらった「スーパーすえなが」さんを訪ねてみる。
店主ご夫婦に尋ねてみると、ここでも通じたのは「新六」ではなく「Tさん」の名前だった。
「Tさんはとてもいい方で、お店に立ち寄っては世間話をしてくれました」と奥様。
そして「私より詳しいから」と、ご店主がお父様を呼んできてくれた。
お父様は祖父の事を憶えていて下さっていた。
「五一さんのお孫さんですか、ほうほう横浜から….それは遠くからよく来てくれました」。
そして、その場所を教えてくれた。
スーパーの前の道(一ノ関街道)を挟んで斜めお向かい、「仙台麩」で有名な山形屋商店さんの本社事務所棟、隣接する民家と広い駐車場のある所が、小野寺家のあった場所だった。
(手前の砂利になっている駐車場と奥の民家、黄土色の山形屋本社事務所棟、奥の建物に至る範囲が小野寺の本家跡だった)
(1975年の航空写真には旧家が確認できた)
「ちょうど事務所と駐車場の境目ぐらいに立派な門があって、駐車場にある所に道路に面してお店(米屋?)の建物があって….」というように具体的に教えてくれたのだ。
本家の移転先をご存じないかと尋ねたが「確か石巻だったと思うけど….住所まではわからない」との事だった。
何とも不思議な気分だった。
「ただいま」と言っていいんだか、いけないんだか…..
祖父の遺品の日記には「柳津」という言葉が何度も出てくる。
「柳津より電報来たる」「柳津へ行くことにする」それは故郷の地名というよりは「家」を示している。
戸籍によれば「本家」を守ってきた祖父の姉夫婦が1970年代の前半に相次いで亡くなっているようだ。
後でに祖父の日記を読み返してみたら、姉の死に関して「いよいよ来るべき時が来た」と書いていた。
「(法事に関して)お向かいの末永君と相談する」と書いてあるのが、まさに私が会った「スーパーすえなが」のお父様だったようだ。
そして、その祖父も1979年に亡くなり、時期を前後して「家」は処分されたようだ。
山形屋のホームページには「昭和57(1982)年 工場及び事務所完成」とあるから、その前の時期だったのだろう。
何十年かかったんだろう?
その家にようやく自分は帰ってきた。
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