宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [4] -奥の細道の碑-

ぶうらぶら,歴史の切れ端,管理人のたわごと

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [3] の続き

8月15日、いよいよ柳津を去るわけだが、昨日はお線香すら持参しなかったので、再び明耕院へ墓参りへ行った。
普段、横浜に住んでいると「お盆」というものをあまり実感しないけど、今回は「14日までに法要も墓参りも済ませるもの」ということを学んだ。
昨日とはうってかわってお寺には人っ子一人いなかった。

お寺を出て、県道へ出る所に車を駐車できる広いスペースがある。
ここからだと柳津大橋がきれいに見える。
柳津を去る最後にと、車を停めて橋の全景を撮影した。
柳津大橋
(柳津大橋)

中学校3年生の時、友人と平泉に旅行へ行った時の事を思い出す。
朝イチで平泉へ到着した後、松尾芭蕉を見習って最初に行ったのが源義経終焉の地「高館(たかだち)」だった。
朝霧の中を流れる北上川の光景は今でも忘れない。幻想的で雄大なその川の力強さは圧倒的だった。

東日本大震災の後、上大岡の赤い風船でストリートライブをやった時に、この時の光景を思い浮かべながらオリジナルのピアノ曲「Water」というのを演奏した。
どんなに時代が変わっても、変わることのない北上川のイメージだった。
まさか自分の中にこの川と身近な場所で暮らし続けた人たちのDNAが入っているなんて考えもしなかった。

柳津は初めて来たのだけどなかなかいい所だ。
別に何があるというわけではない、ないけど次回来るときはもっとじっくり過ごしてみたいと思った。

車に乗ろうとして振り返ると、やや小高くなった所に石碑がある。
「おくの細道の碑」と書いてある。
柳津 奥の細道の碑
(柳津 奥の細道の碑)

碑文でまず目に入ったのは「白鳥省吾(しらとりしょうご)」という名前だった。

どういう縁だったのかはわからないけど、祖父小野寺五一がおつきあいさせて頂いた詩人だった、
僕の両親が結婚した時に書いてくれた詩の色紙が今でも実家には飾ってある。
柳津 奥の細道の碑 碑文
(碑文「明ればまたしらぬ道をさまよひ行く 袖の渡り 尾ぶちの牧 真野の萱原などよそ目に見て遥かなる堤を行く 心細き長沼に沿ふて戸伊麻といふ所に一宿して平泉に到る」)

さっぱり何が書いてあるのかわからないのだけど、芭蕉一行は柳津の辺りを通ったのかなと思いながら石碑の裏に回ってみたら.....
柳津 奥の細道の碑 背後
(石碑裏「俳聖芭蕉の奥の細道に随行せる曾良の日記にも松島、石巻、鹿の股、飯野川、矢内津(柳津)、戸伊麻(登米)を経て平泉に赴くとあり、時は元禄二年五月のことなり 茲にわが郷土柳津のゆかりを回顧し この碑を建つ」昭和四十七年五月 小野寺五一 津山町協賛)

「うわ、おじいさんじゃん!」

全然知らなかったぞこんな話。
じいさんいつこれを建てたんだ。
よくそんなお金があったよな、いやスポンサー集めたのかな。
そう言えば子供の頃に芭蕉がどうのこうのとか言ってたな。いや違ったかな。
それにしても本当に物好きな人だったよなぁ~と、グルグル頭の中で思考がループする。

一昨日からこの碑の前を6回は通っているわけで、最後の最後によくまあ発見できたと思った。
いや、祖父に「早く気づけ、バカ」と言われたのかもしれない。
ここは県道から明耕院への入口にあたる場所なわけだから、初日に気づいていればもう少し確信を持って「ここが菩提寺に違いない」と思えたのかもしれない。

(気づきそうなものなのだが…..)

それにしても何とも偶然ばかりが起きてここまで至っている。
引き寄せられているのか導かれているのかはわからない。
今日はこのまま横浜へ帰るつもりだったけど、ダメモトで石巻の「本家さん」へ寄ってみようと思ったのはこの時からだった。

宮城県柳津へ自分のルーツを探しにいった話 [5]へと続く。