最も新しき大大阪名所絵葉書(2)
昨日の「最も新しき大大阪名所絵葉書(1)」に引き続き2枚の画像をUP。
3:中之島に聳ゆる市庁舎の雄姿
中央の塔屋と建物のバランスが実に美しい。女性的ともいえる優美なこの建物は1921(大正10)年の竣工。残念なことに反対運動があったにもかかわらず、1982(昭和57)年に取り壊されてしまった。現在の市庁舎は、過去のイメージを引きずりながらも、より重々しいものになっている。
なお、市庁舎裏手に写っている府立中之島図書館、電車道をはさんでお向かいの日本銀行大阪支店、遠方に見える堂島ビルディングは、すべて現存する。
僕の職場は西天満だったのだけど、この付近は近代建築の宝庫だった。昼食は宇治電ビル(1937)の地下食堂だったし、仕事帰りに水晶橋や難波橋を渡って中之島付近を散策したものだ。中央公会堂(1918)の美しさなんて、そりゃあもう。
もしこの市庁舎が現存していたなら、中之島の風景はより魅力的なものになっていただろう。
4:十里一望を標榜せる新世界の通天閣
関西に赴任してから2~3回目の日曜日、同僚と「大阪にごあいさつ」がてら行ったのが通天閣だった。「新世界付近は危険だから遊びに行く場合は注意した方がいいよ。標準語で会話していると、からまれる恐れがあるからね」なんて、先輩から脅されたっけな。よくよく考えてみれば同じ日本なわけだし、そんなことでいちいちカラんでいたら、大阪人の身がもたない。だけど当時は恐る恐る歩いたものだった。
さてこの絵葉書、1912(明治45)年7月3日(大正に改元する1ヶ月前)に竣工した初代通天閣だ。当時は「ルナ・パーク」という遊園地のいち施設だった。
「凱旋門の上にエッフェル塔を建てる」というナントモ無茶苦茶なコンセプトのもとに建てられたこの建物、「ルナ・パーク」時代には凱旋門上部までロープウェイがあったことがウィキなどで確認できる。
他にも「ルナ・パーク」には映画館、演劇館、からくり館、音楽館などがあったようだが、採算が悪化したため1923(大正12)年にあっさり閉園、以後通天閣だけが残った。
この絵葉書を見る限りでは、そうしたアミューズメント施設はすでになく、「アサヒビール」の看板が目につく。子どもたちの遊園地から、完全に「大人の歓楽街」に変化してしまった後のようだ。1943(昭和18)年、隣接する映画館から出火、焼損した通天閣は戦時中ということもあって、金属供出のため解体されてしまった。そして現在の通天閣は1951(昭和31)年に再建されたもの。
「ルナ・パーク」の反省が生かされなかったのが1997(平成9)年に開業した「フェスティバル・ゲート」。通天閣から南200mほどにあった大阪市交通局の車庫跡地を利用して、第3セクターによる運営が行われた。ビルの谷間を抜けてゆくジェットコースターで話題になった。
しかし、何しろ場所がよくなかった。
ここはいわゆる「日本最大のドヤ街」といわれる釜ヶ崎地区と隣接している。周囲は段ボールとビニールシートの家だらけだ。
1990年の西成暴動の際、僕は帰宅途中に同僚と見物に行ったことがあったけど、この周辺はほぼ無政府状態となっていた。太子という交差点付近を投石や棒を持った方々がウロウロしていた。あまりにも危険な状態になってきたので、そそくさと現場を去った直後、交差点に隣接している阪堺線南霞町駅が放火により炎上してしまった。20分後に帰宅した僕は、今さっき見た駅が生中継で炎上しているのに口をあんぐりさせていた。以後一ヶ月ぐらい地下鉄の動物園前駅の構内に強烈な木材の焼けた匂いが充満していたのも鮮烈な記憶だ。
「フェスティバル・ゲート」はこの交差点に隣接している。今でこそ通天閣のある新世界付近はかなり健全な街に変化しているし、僕自身もこの付近へ行くことには何の抵抗もないけれど、外部の観光客でここ(フェスティバル・ゲート)まで足を伸ばそうとする人はそうはいないんじゃないかな。USJとかナンバとか通天閣行ったら、腹いっぱいになっちゃうだろう。
僕が家族でフェスティバル・ゲートに遊びにいったのは2000年ごろ、すでに閑古鳥が鳴きはじめていた。入場料無料の建物内では寒さをしのぐホームレスの姿がチラホラ。テナントの空きもチラホラ目立ちはじめており。負のオーラを感じた。「一度行けばもう充分」というのが率直な印象だった。
「フェスティバル・ゲート」は10年目の2007年に営業を終了した。「ルナ・パーク」よりも短命だったことになる。
あっけなく散り果てた総工費340億円のハコモノ行政。その交差点の斜め向かいの街では、今でも厳しい暮らしが続いている。
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