再会 -昭和師弟対決 at 吾妻橋A’sで再会した人-

ライブレポ

世の中は実に狭いという話をしましょう。自分でも驚くぐらいに....

長渕のカバーミュージシャンであり、ビートルズのカバーバンドMr.WilsonではJohn lennonを担当する竜ちゃん(山本竜太郎)。
彼がずっと夢見ていた共演....「吉田拓郎のカバーをさせたらこの人!」という井上ともやすさんとの共演「昭和師弟対決」に行ってきたわけです。

会場は例によって吾妻橋のA’s。下町の武道館とか長渕ファンの殿堂とか言われているハコです。
山本竜太郎
本物の長渕は拓郎に憧れてギターを弾き始め、そんな中で伝説の「篠島事件」が起こります。
1979年7月、愛知県で開催された「吉田拓郎 アイランドコンサート in 篠島」で、拓郎と同じステージで歌う機会をもらった長渕に、一部の観客から「帰れ」コールが浴びせられます。これに対して「帰れっていうんなら、お前が帰れ」と言い返し、最後まで歌い終えたという出来事です。かき鳴らしたギターは弦のほとんどが切れてしまったとか。

今の長渕には怖くてそんな事を言えるお客さんはいないと思いますが(いや、周囲のファンにボコボコにされる)、まあ長渕にもそんな時代があったということです。

今回のライブ、それを再現するわけではありませんが、タイトルのようにガチなライブになるだろう事は必至でした。

念願の共演が叶ったからでしょう。本当に今日の竜ちゃんは過去最高のステージを見せてくれたと思います。

12弦Gによる「俺らの旅はハイウェイ」の美しさも印象的でしたが、最後の「祈り」「巡恋歌」「逆流」の鬼気迫るものを感じました。師匠にガチで挑んでゆく感じ。
「逆流」ではついに5弦が切れてしまったのですが、そんな竜ちゃんは初めてみました。
井上ともやす
迎え撃つ師匠の井上さん。
会場は吾妻橋A’s。ここは「ナガブチの殿堂」なわけで、逆に井上さんにとってはアウェイ感のあるハコなはずですが、そんなことお構いなしにガッチリ観客の心を掴みながら飛ばしてゆく。彼のボーカルとプレイは本当に拓郎が前で歌っているみたいなんです。
井上ともやす
ガチに対してガチで受ける。以前、銀座でも彼のステージを見ているのですが、もう格段に迫力を感じました。「落葉」の観客との一体感。「リンゴ」のハーププレイも壮絶でした。素敵な時間でした。

彼の凄い所は、彼を通して「吉田拓郎」という人の凄さまで伝わってくるんですよね。
時代を超越した凄みと、聞けば拓郎だとわかる唯一無比のサウンド。
井上ともやす&山本竜太郎
さて、ライブのMCで「船橋から京成線で通っていた」という高校時代の話を聞いて、なんだかとても気になっていたのです。
ライブ後に井上さんと話をつきあわせて行ったら驚いた。

彼は僕と同じ千葉県立国府台高校のしかも同じ「フォーク同好会」の一年後輩だったんです。
あのサークルはバンド単位での交流はあったのですが、縦の交流が少なかった。それに自分はロック同好会にも顔を出していたので、彼の事は名前まで覚えていない。

だけど....「そう言や、いつも仏頂面してふてくされていた一年生がいたな、あれは君か?」と尋ねたら、
「間違いなく俺です」。

ああ、何となく思いだした。
いたいたあいつだ!わが道を行くタイプの奴がいた!

1980年代の初頭、オフコース全盛の時代で、ギターは速弾きの時代。汗臭いフォークは壊滅寸前だったし、僕が好きだったようなリフ重視のThe Whoもカヤの外になりつつあったのです。あと60年代のロックにハマっていたというのもあります。

高2の後半になると、彼女ができたというのもあって(笑)、だんだんバンド活動から遠ざかって、頼まれた時にキーボードで助っ人するようになってしまいました。

井上君も竜ちゃんも偉いのは、それでも自分の好きな音楽をプレイし続けたということだと思います。
自分はそれはなかったけど、何かそういう音楽や人生の大きな輪がぐるりと回って、思わぬ所で再び交錯したことが、自分には嬉しくてなりませんでした。
そう、形は違うけど「音楽を続けてきた」という意味では一緒なんです。
竜ちゃんが縁となり、再び思わぬ形で再会することができた。これがとても嬉しかった。

帰途、すっかり機嫌が良くなった僕は彼に「家の方まで送るよ」と車で千葉県へ。
といっても江戸川越えれば市川市。僕はここに1980年から10年だけ住んでいたのです。

ついでに懐かしい母校にも寄りました。
そして校門前で竜ちゃんに記念写真を撮ってもらったのです。

竜ちゃんの「師匠」が僕の「後輩」というわけのわからない図になってしまいました。
でも、僕は高校の先輩かもしれないけど、井上君も竜ちゃんも音楽の大先輩。
これからも「裏方」として応援してゆこうと思ったのです。

竜ちゃん、思わぬ再会をありがとう。
そして夜遅くまでつきあわせてすいませんでした