夜の岡山駅にて
岡山駅なう。
夜も更けゆくホームで新倉敷駅行きの鈍行列車を待っているところです。
のぞみからこだまに乗り換えればいいのですが、あえて鈍行に乗ってみます。
ここにいると戦時中の祖父の話を思い出します。
戦時中、父方の祖父は家族を自分の実家に疎開させていました。岡山の「玉島」という所です。ここは新幹線の新倉敷駅周辺の地域で、いま僕が行こうとしている所です。
昭和20年になって東京の空襲が激化してくると、祖父は家族に会うために毎月のように夜行列車で玉島へやってました。
祖父が東京に戻る日になると僕の父は子供心に「親父と会えるのもこれが最後かもしれない」といつも思ったそうです。誰もが死をリアリティをもって受け入れていた時代の話です。
ある昭和20年の夜のこと。東京から長距離列車に揺られてきた祖父は、岡山駅で乗り換えの鈍行を待っていました。そう、今の僕と同じようにです。
そこへ空襲警報が発令されました。岡山大空襲の始まりです。
あっという間に駅の周辺は猛火に包まれてゆきました。
たまたま駅に居合わせた旅客たちは駅の消火に務めました。祖父もその一人でした。どれだけ緊迫した状況だったのかはわかりませんが、懸命な消火活動が功を奏したのか、岡山駅は炎上を免れたそうです。
Wikiによれば岡山大空襲は昭和20年6月29日の午前2時43分に始まりました。この空襲によって1700余名が亡くなったそうです。
父は、祖父が手ぶらで玉島まで歩いて帰ってきたのを覚えています。くたびれ果てた祖父は「荷物を持つのも億劫じゃから駅においてきた。明日でも取りに行く」と言っていたそうです。
岡山から玉島までは今でも電車で30分近くかかるようです。長距離列車と消火活動でクタクタになった祖父には荷物を持ってその道のりを歩く気力すらなかったのでしょう。
さあ、電車がやってきました。
乗ることにしましょう。
ディスカッション
コメント一覧
日本の歴史からしたら切れ端かもしれませんが、一人一人が生き抜いてきた、生きてきた、歴史そのもそですね。
>路央はは様
そういう一人一人の歴史が、一番リアリティのある歴史ですね!
お父様の「魚屋さんのお隣」のエピソードなんか、まさにそうだったと思います。
岡山空襲が73年前の今日のことだとニュースで知り、その当時のことを調べる中でこちらのブログに辿り着きました。
私の祖父母の家も玉島にあります。そして祖母(87歳)も岡山空襲を経験した一人です。重なる部分が多く、大変親近感がわきました。祖母は火の手から逃げる中、三叉路で選んだ道を間違えていたら死んでいたと言っていました。
岡山駅が焼け落ちなかったのがとても不思議ね、とその時会話していたのですが、まさか管理人様のお祖父様方が懸命に守った結果だったとは。驚きを隠せません。
貴重な証言をこうしてネットの世界に公開していただけたことで真実を知ることが出来ました。ありがとうございます。
5年も前の投稿にこうして今出会えたことを嬉しく思い、コメントさせていただきました。
>minori様
コメントありがとうございます。
そうですかニュースでやっていたんですね(^^
お祖母様の三叉路の話も奇跡ですね。たまたま業火の中で岡山駅が焼けなかったのも奇跡としか言いようがありません。祖父もたまたま子供たちに会うために帰省して、こんな目に遭うとは思わなかったでしょうね。
我々がこうしてコメントのやりとりをしているというのもそういう奇跡の積み重ねだと思うと不思議な気持ちになります。
祖父の実家は玉島の富田に今でもあります。
祖母の実家が純粋な港町の「玉島」だったそうです。