祖母が目撃した米騒動

歴史の切れ端

さて、正月に父方の祖母と話をしていたおり、彼女自身が大正7年に体験した米騒動の話が出てきた。
祖母は大正3(1914)年2月の生まれだから、もうすぐ93歳になる。

93歳なんて年齢は、僕の想像をはるかに越えている。考えてみればこの人は僕の物心ついた時にはすでに「おばあちゃん」だったわけで、それ以来ずっと「おばあちゃん」を続けている。そもそも物心ついて以来、ほとんど変化が感じられないのだから凄い。

ちなみに祖母のお姉さんは100才でまだお元気だ。ついでに僕の母方の祖母も96才で存命だ。二人とも明治の生まれである。こうやって考えると長寿の家系のように思えるが、多分僕はそれほどには長生きはしないだろう。これが明治大正の人間の強さなのだから。

さて、米騒動。
米騒動の発端となった倉庫
海側から撮影
これは富山県の魚津市内の海岸ぞいにある古びた倉庫の画像だ。昨年の夏に撮影した。一見何の変哲もないこの倉庫は、かつて金沢十二銀行の倉庫だった。この倉庫の前へ魚津の漁師の女房たちが押しかけて、船による北海道方面へのお米の出荷をやめるようにと荷主に要求したのは、大正7年7月23日の夕方のことだった。

この時期、お米はシベリア出兵を機とした商人の買占めなどにより、全国的に平常の3倍以上に高騰していた。魚津から米が北海道に出荷されれば、それだけ魚津の米価がつりあがることになる。それをやめてくれという女房たちの要求は、井戸端会議から始まったようなささやかなモノだったし、大変おとなしいものだったようだ。
事務所部分
ところがどっこい、これが新聞で報道されるうちに内容がエスカレートしていった。当時の新聞で「越中の女房一揆」というセンセーショナルが見出しがつけられ、またたく間に富山中に広がった騒動は、しまいに全国規模への暴動へと発展していった。

全国700ヶ所以上で発生した暴動に加わった人は百万人ともいわれており、これが一斉に米屋や米の買占めをしている投機的商人や商社を襲撃したのだ。これがいわゆる「米騒動」だ。
当時の石壁が露出していた
しまいには時の寺内内閣まで総辞職に追い込んだのだから、女房のパワー恐るべし恐るべし。これが「騒動」で片付けられるような単なる"Riot"だったのか、もっと「革命的な」"Revolution"だったのかは意見の分かれるところだが、おそらく戦前の日本では最大級の民衆行動だったことは間違いないだろう。

さて、祖母の話。
大正7年当時、祖母は岡山県の井原町(現井原市)というところに住んでいた。井原は岡山平野の西北端に位置し、中国山地への入口にある何の変哲もない町だ。僕はここへは2度ほど行ったことがあるが、寂れた商店街の一角に祖母の実家が今でもある(現在は住む人もおらず、お向かいのCDショップの楽器倉庫か何かになっているらしい)。
ここで祖母の家は米屋をやっていたために、米騒動の襲撃対象になったのだ。

当時4歳半だった祖母は、当時のことをありありと覚えていた。
「街には何軒か米屋さんがあったけど、一軒ずつ火をつけられていったのよ。私の家ではそれに対抗するために、番頭さんや丁稚さんが総出になってお店の前に棒を持って立ったのよ。だけどそれだけじゃいけないんで、夜にかがり火をあかあかと灯して昼間のようにして、簡単には近づけないようにしたの。だからウチは襲われなかったんじゃないかしら。私たち(祖母を含めた三姉妹)は、あんまり怖いんで、奥の部屋で布団を被って隠れていたけど、それでも外の騒ぎ声が聞こえてきて怖かったわ」
「その日にはなぜか警察は暴れた人を逮捕しなくて、どこでどう調べたのかはわからないけど、翌日になって騒動に参加した人たちが検束されていったわ」
「私の父は、それ以来米屋が嫌になってしまい、結局肥料や薪炭屋へと商売替えしたけど、戦後になってこの仕事もやめてしまったの」

という話だった。

「よく覚えているね」と僕が言うと、
「だってあまりにも怖かったんですもの」と返事がかえってきた。
何しろ当時4歳半だった子どもの記憶だから、歴史的な裏づけも必要なわけだけど、いっぽうで教科書では伺い知れないリアリティを持っている話だった。

この話を横で耳にしていた叔母が、
「お母さん、そんな話、わたし初めて聞いたわ」
と驚くと、
「だって尋ねられたことがないもの」
と祖母は笑って応えたのだった。

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