武尊神社(群馬県みどり市)異聞録 [3]
昭和22年(1947年)9月14日から20日にかけて、カスリーン台風が関東と東北地方に襲いかかった。
利根川、荒川、江戸川の各所で堤防が決壊して大洪水をもたらし、埼玉東部、東京の葛飾区、江戸川区が広範囲にわたって水没した。
死者1,077名、行方不明者853名をもたらしたこの台風、首都圏が水没された事だけが取り上げられがちだが、最も深刻な被害を被ったのは利根川上流の渡良瀬川流域だった。
(カスリーン台風で氾濫した利根川:毎日新聞社「20世紀の記憶-冷戦 第三次世界大戦-」より)
この流域の被害には人災という側面もあった。
もともと地盤がもろいところへ足尾銅山による煙害と産業燃料用や軍事用の伐採で源流の山々は禿山と化していたからだ。
台風によって山体は崩壊し、土石流となって下流へと襲いかった。
とりわけ被害が甚大だったのが足利市で、市内各所で堤防が決壊し死者252名、行方不明者67名を出している。
(カスリーン台風の一年後、昭和23年10月19日撮影の旧草木地区の航空写真。国土地理院撮影。川の左手が草木地区。下から来た道が集落の手前で二手に別れているが、そのままやや進んだ左手付近がダム水没前の武尊神社旧地。さらに道を進むと道路が緑で覆われている。これは道路が木々に覆われているようにも、山崩れで土砂が流出しているようにも見える)
そんな利根川水系の治水と利水と戦後復興のエネルギー需要に応えるべく「利根川水系における水資源開発基本計画(フルプラン)」が決定されたのが、昭和37年(1962年)4月のことだった。そして計画の一環として渡良瀬川に「神戸(ごうど)ダム」が建設されることとなった。
のちにこの名称は、水没する集落の名前をとって「草木ダム」と変更される。
(国立公文書館蔵。群馬県知事の意見書には「ダム周辺地域の農家の平均反別は6反程度で、現状においても自力経営は極めて困難」とあった)
利根川水系のダムといえば、近年では八ッ場ダムの反対運動が有名だけど、とにかく利根川水系のダム建設は反対の嵐だったようだ。
昭和42年(1967年)3月、「神戸ダム」の建設が始まると猛烈な反対運動があったことがWikiに書かれている。
昭和48年(1973年)2月28日、近隣の足尾銅山が閉山している。これもまた住民の流出を後押しする要因となったことだろう。そんな中で武尊神社の遷座(移転)は無事終わったようだ。「くろべぇの廃墟:呪いの廃神社」情報によれば、拝殿内の太鼓には「昭和48年十一月吉日 武尊神社新築記念」と書かれているとのことだ。
昭和52年(1977年)3月、草木ダム完成、運用開始。
(この頃の武尊神社の数少ない寄進物として「昭和五十三年四月」と判読できる灯篭があった)。
ダムの完成によって「上草木」「白濱」「横川」3つの集落は水没した。
「ダム便覧」によれば水没230世帯のうち、ダム周辺に移転した世帯数は118世帯とある。
ただし「周辺」といっても、武尊神社のある東村草木地区に移転したのは、せいぜい20世帯に満たなかったのではないだろうか。
1975年の航空写真からはそれが伺える。そしてこの時点で常駐の宮司さんはいなかったのだろう。
宮司をされている知人に聞いてみた。
その方によれば2018年現在、全国にある神社の数は10万社。それに対して神職は2万人足らずで、宮司の人数はもっと少ないとのことだ。
つまり一人の宮司さんが何社も兼務しており。その宮司さんも別に仕事を持っている事があるのだという。
群馬県神社庁のサイトでは管轄神社の管理状況が公開されている。それによれば武尊神社を含めてみどり市と桐生市にある13社を同じ宮司さんが兼務していることが伺える。
これだけの数の神社をかけもちするとなると、氏子さんの協力がなければ成り立たない。
「氏神様」「鎮守様」と言うぐらいだから、神社には地域を鎮護する神様という性格があった。そして地域の人たちは、氏子として神社の維持のために物質的にも精神的にも協力するという関係があった。
たとえば我々は新年になると近所の小さな神社にお参りすることがあるが、そこに神職の方がいるということは珍しい。
ドラム缶で焚火をしながら、参詣者に甘酒を振舞っているのは、だいたい地域に住む氏子さんたちだ。
残念なことに草木地区ではその氏子さんが一人もいなくなってしまった。世代交代、旧住民の転出、新住民の転入が「守る、守られる」という関係を希薄にしてしまったようだ。
同じ草木ダム周辺でも沢入地区の東宮神社が氏子さんに支えられて活気があるのに対し、対照的だ。
そこをメンテしてくれる人がいなければ、神社は朽ちてゆくしかない。
(草木橋から見下ろした武尊神社の旧参道)
現在、武尊神社のご神体は保安のために別の場所に移されている。
しかし他の神社に正式に合祀されたわけではない。
なぜなら武尊神社は現在も「神社庁」に社名が登録されているからだ。
つまり「廃神社(廃祀)」になったわけもなく、いまなお(建前上は)そこに神様はいることになっている。
というのが現在の武尊神社の置かれている複雑な事情だ。
それはまた、大半の日本の神社が置かれている複雑な事情でもあるわけだ。
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