川崎市営大島住宅の記憶
7月5日、所用で川崎へ行ったついでに撮影したのがここ。
川崎市営大島住宅という。
すでに住民は移転し大半の棟が取り壊されている。おそらく年内にこの建物も消えてなくなるのだろう。
昭和30年~34年にかけて建てられた大島住宅は、川崎市営住宅の鉄筋コンクリートタイプの団地(耐火住宅)としてはおそらく現存する最古の物件だ。
もちろん戦前の同潤会時代はともかくとして「団地」というくくりで考えてみても最初期の物件といえるだろう。
まだ銭湯が当たり前の時代だったため、風呂がない部屋もあり、それに対応して周辺には2軒の銭湯がある。
(大島住宅間取り図。お風呂がない)
以前から気になっていたこの建物、解体を期に記憶にとどめてみた。
燦然とそびえ立つ屋上の給水塔は、ポンプで吸い上げておいて重力で給水する高置水槽タイプ。
あいにく建物は閉鎖されていたけど、これをみると水道は屋上からこのように配管され、共用廊下づたいに各戸へ供給されていたようだ。
いわゆる「下駄履き住宅」というやつで、1階には店舗や事務所が入居しているタイプ。パブで一杯やってから帰宅するか、酒屋で買って家で一杯飲むかはご自由に。
建物の南側にまわりこむ。下駄履き店舗の勝手口がみえる。ブロックの建物はポンプ室で、給水塔まで水を送りこんでいたのだろう。小学校の頃、学校のポンプ室に入ったことがあるけど、ヒヤッとした空気と湿気を帯びたコンクリートの臭いは今でも忘れられない。
フェンスとベニア板で侵入者を防いでいるけど、左手のハシゴは登れば….
屋上に辿りつけるというわけ。ハシゴの右手にある四角い窓はダストシュートの排気口だろう。昭和40年代には上大岡の赤い風船にもダストシュートがあって、覗き込んだ6歳の僕は落下してきた段ボール箱で大けがをしたことがある。
板切れで覆われている部分がダストシュートの回収口。場所がら自転車、手押し台車、トランクが投棄されていた。
7号棟のダストシュートを見上げる。建物が機能するために必要なラインが全部むき出しになっているのって、それはそれで美しい。現在の建物は見えないようにしてしまっているけど、この建物では歳月をかけて、あれこれと機能が追加されていっている。その「つぎはぎ」さ加減がいかにも高度経済成長時代を象徴している。
この建物の配線の重なり具合はまるで考古学の地層みたいだ。電話線の上にアンテナ線、アンテナ線の上にインターネットのケーブルという具合。最初からあったのは電気とガスと水道。いや水道管も高架水槽にしてから改修されていると思う。
再び表通りの商店を撮影する。人が住まなくなった鉄筋コンクリートのビルは、窓の開け閉めがなくなるので急激に劣化するんだそうだ。
そうするとコンクリートがアルカリ性から酸性になるんだそうだ。鉄筋は錆びることでコンクリートに亀裂を入れる。外壁が剥落しやがては崩れだす。
以前、軍艦島の建物の崩壊を科学的に説明した番組でそんなことを言っていた。
鳩はそれでも住民として住み続ける模様。
ディスカッション
コメント一覧
この辺は沖縄出身の方が多いのですよね。横浜の鶴見と同様に、最初は鶴見の旭硝子工場に集団で来たのだそうです。彼らの親類は戦後はブラジルやペルーに移民しており、そうした人たちが日系ブラジル人として、川崎や横浜の臨海部に再度移住してきているのが、このエリアの歴史です。
>さすらい日乗さん
そうなんですか。
知らんかったです。建て替え後ショッピングセンターも入る大きなビルになるそうですよ。
川崎の郷土芸能と言うとなんと沖縄の芸能なのです。役所の指定市のイベント等で川崎市に行くと必ず見せられたのは、沖縄の歌や踊りでした。
>さすらい日乗さん
目から鱗な話、ありがとうございました。