東伏見邦英伯爵あるいは慈洽門主と横浜プリンス貴賓館の話

おみおくり

僕の手元にはこんな一冊の本がある。
東伏見邦英「宝雲抄」
その本の名は「宝雲抄(ほううんしょう)」。
奥付には昭和六(1931)年五月二十日に民友社発行とある。その内容はみうらじゅん風に言えば「見仏記(けんぶつき)」だ。
奈良の仏像についての感想が書かれている。
東伏見邦英「宝雲抄」
作者いわく(原文を読みやすくしている。以下同じ)。
「昭和二(1927)年の四月、すなわち僕が中学四年をおえた春休みに、奈良へ行った時の印象や感想を(中略)投稿して以来、年々奈良へ行っては新しく得た印象を書き連ねて、四年間引き続き同誌に載せたもの」。それを一冊の本にしたとある。
作者は明治43(1910)年5月の生まれだから、16歳から20歳ぐらいの間に書かれた文章、ということになる。

そんな「宝雲抄」の第一章は「秋篠寺」。それはこんな出だしで始まる。

昨夜奈良へ着きました。なじみの多いホテルの気安さについ夜更しをした為、朝の食事を済ませた時には、もう法隆寺管長が尋ねてきておられました。天平時代の造仏造寺の思想の根本となった最勝王経の話を聞いているうちに九時過ぎになったので、大急ぎで宿を出て秋篠寺へ行きました。

なんとも16歳の少年らしいみずみずしい文章なので微笑ましくなるが、「法隆寺の管長は置き去りかい!」とツッコミも入れたくもなる。だけど読み進むうちに、この少年の16歳とは思えぬ仏教美術に対する造詣や知識の深さに驚かされる。

光仁天皇の時代は、たとえ消極的であったにしても、天平のデカタンな気分を清算し、爛熟した天平文化を適当に日本化してゆこうとした時代です。次に来る弘仁、藤原の文化はすでにこの時代に芽ざしていたと思います。そういう意味で、秋篠寺は、同じく天平末期に創建されて、弘仁時代に完成された唐招提寺とともに興味ある寺です。

そんな「宝雲抄」には、とても美しい装丁がほどこされている。
東伏見邦英「宝雲抄」
(「宝雲抄」表紙)
東伏見邦英「宝雲抄」
(「宝雲抄」見返しのデザイン)

ちょっと現代では考えられない念の入れようだ。
それもそのはずで、装丁を担当したのは明治から昭和期を代表する画家の和田三造。代表作に「南風」がある。
こんなド偉いお方に装丁を頼める人は、そうはいるまい。むろん法隆寺の管長さんがわざわざ尋ねてくるような人も、だ。
東伏見邦英
それもそのはず。著者は東伏見邦英(ひがしふしみくにひで)伯爵という。
皇族の久邇宮邦彦王の第三皇子で、香淳皇后(昭和天皇皇后)の弟...つまり今上天皇の叔父だった方なのである。

この人、造詣が深かったのは仏教美術だけではない。ピアニストとしても録音史にその名を残している。
「宝雲抄」を出版した翌1932(昭和7)年、伯爵は近衛秀麿指揮の新交響楽団とともに、ハイドンの「ピアノ協奏曲 二長調(作品21 Hob.XVIII-11」を録音している。この曲の録音は世界初だったとも言われている。
この録音はSP盤として日本ポリドールからリリースされたほか、近年にはCD化もされている。
東伏見邦英「ハイドン ピアノ協奏曲ニ短調」
京都の半導体メーカー「ローム」が設立した音楽財団「ローム・ミュージック・ファンデーション」がリリースした「日本SP名盤復刻選集」という6枚組CDの中に、その音源は収録されている。

5年ほど前のことだけど、このCDボックスを神保町の「富士レコード社」で見かけたことがある。かねてよりこの方には興味があったので食指が動いたけど、何しろ9000円もするシロモノだ。そこで戦前SP盤のことならば何でも知っているお店の方に聞いてみた。
「この東伏見さんのハイドンですが、演奏のデキはどうなんですか?」
そうしたら「うーん、何しろ宮様ですからね~(苦笑)」。

(旧東伏見邦英伯爵別邸、一日限定の一般公開/神奈川新聞)
さて話を変えよう。
この東伏見邦英伯爵が住んだ邸宅が、横浜市磯子区に現存する。
横浜市の歴史的建造物にも認定されている「旧東伏見邦英伯爵別邸(※1)」がそれだ。
旧東伏見邦英伯爵別邸

JR磯子駅の西側には、国道16号沿いに標高70mの断崖絶壁が連なっている。
ずっと昔にはこの断崖が波打ち際だったのだから、さしづめドーバー海峡の白い崖みたいな風景があったのだろう。
この建物はその崖の上にある。竣工は1937(昭和12)年だ。

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この邸宅の寺院風のデザインには、伯爵の仏教美術に対する造詣の深さを感じるけど、その一方で強い時代性を感じずにはいられない。
1937年といえば、日本が世界的に孤立を深めている時期で7月7日には盧溝橋事件に端を発した日中戦争が勃発している。おのずから生まれるナショナリズムの影響はこうした建築にも及んでいた。公共施設を中心に和様折衷の不思議な建物がやたらと増えている時代だった。
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(愛知県庁 – 1938年 – Wikipediaより)
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(東京帝室博物館 -1938年 – wikipediaより)

華族という存在は(実情はともかくとして)建前上は国民の模範的存在でなければならなかった。
そうした人たちの邸宅は、あるいみ公共的なものであったから、時代の風が反映されていたと考えても無理はないだろう。
たまたまそれは伯爵の好みと一致していたのかもしれないけど、あるいはそこに何らかの妥協の産物があったのかもしれない。
その点はとても気になるところだ。
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(磯子の断崖絶壁)

さて、この磯子の断崖絶壁だけど、昭和の初め頃までは崖上へのアプローチは極めて難しかった。しかし1929(昭和4)年に地元の有志たちによって、間坂という地から一直線の坂道で崖を登り上がる「岡村道」が切り開かれた(今でもここはジェット・コースターみたいな道だ)。
岡村みち
(東伏見邸方面から岡村道を見る。ちなみにこの坂の中間右手あたりに、かつて美空ひばりの「ひばり御殿」があった)

これによって断崖の上まで車が通れるようになり地の利がよくなったこと、もともと磯子が海岸に面した温暖な地だったこともあって、ここに別邸が建てられたわけだ。話は脱線するけど、この断崖は関東大震災の際に崩れおちて、直下にあった料亭で16名が亡くなっている。僕はこの惨事を「関東大震災と磯子偕楽園の惨事」という記事にしている。

さて、戦争が終わると、東伏見家のような華族はその特権を廃止させられ、多額の財産税に喘ぐことになった。
そこに目をつけたのが西武グループの創業者である堤保次郎だ。彼はそうした土地や邸宅をどんどん買収し、そこでホテル経営を始めたのだ。
だから西武系の「プリンス・ホテル」の大半は旧宮家や華族に所縁のある土地や建物から始まっている。
もしプリンス・ホテルの本館の隣に「旧館」があるとすれば、「なんとかの宮様」のお屋敷に間違いない。
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(昭和30年代の同邸)
土地や邸宅の買収には、時には「内部の切り崩し」を必要とする。そうすると宮様や華族にお仕えしている執事などがターゲットになる。堤保次郎は彼らに対して西武グループで雇用することを餌に買収を持ちかけるという手を使っている。このあたりについては、いまなにかと話題の猪瀬直樹サンが「ミカドの肖像」に書いている。

ご多分に漏れず「東伏見邦英元伯爵別邸」は1953(昭和28)年、西武グループに売却された。
建物は「横浜プリンス会館」として営業を開始し、やがて周囲に新館を建て増しして「横浜プリンスホテル」として規模を拡張していった。

ただ地元の人は親しみを持って「磯子プリンス」と呼んでいた。中でも旧館(伯爵邸)は崖の上の目立つ場所にあったから、「磯プリ旧館」とか「磯プリ貴賓館」と親しみを持って呼ばれていた。僕が小学生の頃も、磯子のあちこちからこの旧館が見えたものだ。今でこそ赤っぽい屋根が特徴だけど、当時は銅葺き屋根だったのだろう。僕は崖の上に建つ緑青色の建物をよく覚えている。

その後の東伏見元伯爵のことを、僕はよくわかっていない。
ウィキペディアや次男である東伏見慈晃(現青蓮院門跡門主)氏へのインタビュー(「皇室 夏号(平成20年)」)によれば、京都大学で歴史学を教えていた伯爵は、終戦の直前に京都の青蓮院門跡で得度(出家)している。もともと青蓮院は祖父の久邇宮朝彦親王が門主だったこともあるお寺で、慈晃氏によれば「日本の歴史は仏教を離れては考えられない。仏教を知るには自ら仏門に入ってみなければ(上掲書から)」と考えたのだそうだ。
青蓮院門跡
そして1953(昭和28)年...つまり西武グループに磯子の別邸を売却した同じ年に、京都の青蓮院の門主となり、法名を「東伏見慈洽(ひがしふしみじごう)」とした。
香淳皇后と東伏見慈洽
(高貴なる姉弟。香淳皇后と東伏見慈洽氏 – 昭和30年)

そんな慈洽氏の仏教会での活動は、多少は僕の人生ともオーバーラップしている。
1985(昭和60)年頃の古都税問題の際は、慈洽氏は京都仏教会の先頭に立って京都市とバトルをしている。当時は大学生だった僕は、主要寺院の拝観停止ストライキがいつまで続くのだろうとヒヤヒヤしながら事態の推移を見守ったものだ。大学サークルの古都研究会に入っていたから、夏の京都合宿で主要なお寺が見れないことを心配していたのだ。

1993(平成5)年、京都に住みだした頃には「京都ホテル高層化にともなう景観破壊への反対運動」というのが、京都仏教会とホテル側間で勃発した。この時も慈洽門主は先頭に立っていたはずだ。各寺院の門前に「京都ホテルに宿泊の方は拝観をお断りします」という看板が立ったのだけど(これが本当の門前払い)、「京都という所は、どんな権力者でもこの人たちを敵に回すと恐ろしいことになるんだなぁ」と思ったものだ。
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(天皇・皇后両陛下と東伏見慈洽氏)

時間は滝のように流れてゆく。
押し流されてゆく「今」は、物事が常ならぬことをいつも我々に教えてくれる。

1990(平成2)年、磯子の崖の上では4年の歳月を経て横浜プリンスホテルの新本館が完成した。それまで磯子のシンボルとして区内各所から眺めることのできた「旧館」は巨大なビルに覆い隠されてしまった。ところが竣工のタイミングを狙ったかのようにバブル経済が崩壊、ついに2006(平成18年)をもって横浜プリンスは閉館となった。竣工からわずか16年で新本館は解体され、再び「旧東伏見邦英伯爵別邸」の姿だが残った。

その後、この土地の再開発計画は二点三点する。一時は「伯爵別邸」の存続も危ぶまれたけど、結局この建物をシンボル的モニュメントとした1230戸の大規模マンション「ブリリアシティ横浜磯子」が建設されることになった。

3年ほど前だったと思うけど、横浜市の歴史を研究している友人のSさんと、酒の肴にこんな話をしたことがある。
僕「磯子プリンスの旧館を作った東伏見さんって、まだご存命だって知ってた?」
Sさん「えっ、それ本当?」
僕「本当だよ。今は京都で青蓮院の門主をされている。もう百歳になろうとしているよ。歴史そのものだね。」
Sさん「それは凄い!」

さらに僕は続けた。
「Sさんは磯子の歴史を研究している知り合いが多いでしょう。貴重な話を聞いてみたいよね。あの建物の建設した時の話とか、当時の磯子の風景とか、面白い話が聞けるかもしれないよ。個人じゃまず無理だろうから、磯子歴史研究会みたいな団体でインタビューを申し込めたらいいよね。必要ならばボランティアで京都まで車を出してもいいよ」
Sさん「いやいや、あまりにも畏れ多いよ」

いやはや....仮に「磯子歴史研究会」として取材のアポを取っても、お会いできるような方じゃなかっただろう。

そして2014年1月1日のこと。その訃報は唐突に訪れた。
日経のニュースによれば、こうだ。
天皇陛下の叔父、東伏見慈洽氏が死去 103歳

天皇陛下の叔父に当たる天台宗青蓮院前門主、東伏見慈洽(ひがしふしみ・じごう)氏が1日、慢性心不全のため死去した。103歳だった。自坊は京都市東山区粟田口三条坊町69の1の青蓮院。密葬は6日正午から同院。喪主は次男で同院門主の慈晃氏。
 久邇宮邦彦王の三男に生まれ、香淳皇后は実姉。1931年に皇籍を離脱し、京都帝国大学(現京都大)を卒業後、45年に得度。53年~2004年、青蓮院門主を務めた。1985年、京都仏教会会長に就任。京都市と仏教界が対立したいわゆる「古都税問題」では反対運動の先頭に立った。

この訃報を聞いた時の喪失感たらなかった。不思議なことにそれは大滝詠一の死以上の衝撃だった。
何か想像を絶する「大きな時代」の一つが、去ってしまったような気持ちになったのだ。
ブリリアシティ横浜磯子
奇しくも来月、「ブリリアシティ横浜磯子」は最後の区画が竣工する。
かつての断崖絶壁の上の風景はすっかり変わってしまったけど、相変らず「旧東伏見邦英伯爵別邸」は大規模住宅のシンボル的存在として、その場に鎮座している。
旧東伏見邦英伯爵別邸
今後はレストランやゲストハウスとして、運営されてゆく予定だそうだ。

※1:「東伏見宮」は間違い。皇族から臣籍降下して東伏見家を創設し、後嗣のいなかった東伏見宮家の祭祀を継承した。

おみおくり