いとこいの境地

おみおくり

明治の大落語家、三遊亭圓朝師匠は永年の研鑽と禅の修業によって「無舌(むぜつ)」という境地に至った。
僕は禅や落語の求道者ではないから「舌が無い」という言葉の真の意味するところはわからない。だけどこれは「語らずして語る」ということなんだろうな、と勝手に合点している。

噺(はなし)やしゃべくりを芸とする者が「語らずして語る」ことなどできるだろうか?

僕はそういう人たちを知っている。いや、知っていると思っている。
それは漫才の夢路いとし、喜味こいし師匠だ。2人のことを関西では「いとし、こいし」。さらに省略して「いとこい」と呼んでいる。

「昨晩ね」
「うん」
「エラい交通事故を目撃しましたよ」
「エラいってどんな?」
「交差点で車が正面衝突してね」
「ほう」
「双方の車がぐしゃぐしゃになっちゃったんだ、これが」
「ほう~ あ、そうそう、ぐしゃぐしゃと言えば君んとこのカミさん元気か?」

こう言っては失礼かもしれないけど、二人のネタをこのように文章にしても決して面白いものではないかもしれない。
現在の若手漫才とは比べ物にならないぐらいトークのテンポはゆったりだったし、ネタも古典的だった。オヤジギャグ的なダジャレの連発もあったりして、これをフツーの人が言っても全然面白くないだろう。

たとえば1990年代に関西ローカルTVで「いとこいの漫才を分析する」という特番をやっていたけど、その中で「湾岸戦争」というネタを見たことがある。
「僕の家でね~湾岸戦争が勃発したんだよ」で始まるこの漫才は、
いくらを食え~と(イラクとクェート)言ったから勃発した。
カミさんの投げたお椀がガーンとぶつかったから湾岸戦争。
隣の「タコを食う関君」が登場したから多国籍軍。
布施(東大阪の地名)のご隠居が登場したからフセイン.......と、本当に「しようもない」ネタの連発だった(個人的には好きだけど)。

(Youtubeにあった「湾岸戦争」。ただし僕が見たのと別番組)

ところがこのネタが「いとこい」というフィルターを通ると、思わず笑ってしまうのだから困ったものだ。
二人の声のトーン、表情、言葉のやりとりの「間(ま)」....そういった絶妙な要素がいくつも重なって、何てことないギャグを笑いにかえてしまうのだ。

上記の同じ番組内でレポーターの太平サブローが二人の漫才を音響学の専門家に科学的に分析してもらっていた。そうしたら「いとこいの声は、人間が一番耳を傾けやすい特性を持っている」という結果が出ていた。

当時は二丁目劇場の全盛時代だった。サバンナ、ジャリズム、千原兄弟、中川家、スミス夫人なんていう若手芸人たちのテンポの早い笑いや「しゃべくり漫才」ではなくて、コントが主流になりつつあった。そんな潮流の中で、この二人が登場すると自然と耳を傾けてしまい、そして笑ってしまうことの理由のひとつがわかった気がした。

そんなある日、二人の漫才をみていて気づいた。
この二人は「面白いことを言って笑わせよう」としているんじゃない。二人がそこにいること、そこでしゃべくりあっていること自体が面白いフェノメノン(現象)となっているからこそ、笑ってしまうのだ。

むろん二人は笑わせることを職業とした「漫才師」だ。
だけど永年の芸歴は彼らの「話芸」というものを究極の形まで完成させていた。ひとつひとつネタに頼らなくても面白い、というところまで成熟させてしまった、ということだ。
「語らずして語る」.....これこそ圓朝の「無舌」って境地なんだと思った。
以降「いとこいの漫才は神」っていうのが、僕とカミさん(笑いにはかなりうるさい)との共通認識となった。

2003年にいとし師匠が急逝する。昭和12年の結成以来、66年近く続いたコンビに終止符が打たれた。
直後に追悼番組が放映され、NHK大阪で収録された「いとこい最後の漫才」がオンエアされた。そこに登場したこいし師匠は、笑顔で話しながらも、とても辛そうだった。その後、こいし師匠は一切の漫才を封印、バラエティ番組のコメンテーターとしてテレビに出演するようになった。広島での被爆体験なども語るようになった。髭を伸ばしはじめた師匠を見て「もはや仙人か?」と思った。

そして本年1月23日、こいし師匠は肺がんのために亡くなった。
「自分のおじいさんが死んだ気分」とカミさんは言った。多くの関西人が同じことを感じたのだろう。

「語らずして語る」「歌わずして歌う」どちらもひとつの境地だと思う。
たとえば歌詞に意識的に耳を傾けなくても、あるいは何を歌っているかわからなくても、なぜか心にしみわたる、なぜか泣けてくるような歌声があるとするならば、そのボーカリストは多少なりともそういう境地にいるのかもしれない。


(僕の場合、例えばこの人。Van Morrison – Tupelo Honey)

そして、そういうことを気づかせてくれたひとつが、この二人の漫才だった。


(いとし こいし「ジンギスカン」)
出てくるだけでなぜか可笑しくなる。お客さんも笑っている。
これって「無舌」の境地なんじゃないだろうか。

おみおくり