追悼 吉村昭さんと僕
昨日は大作を仕上げたので、ちょっとお休みしようと思っていたのだが、昨日の晩になって「吉村昭死去」というニュースが飛び込んできた。7月31日午前2時38分、膵臓がんのため、三鷹市の自宅で亡くなられたとのこと。享年79歳。史実を克明に追った記録文学の巨匠だった。
吉村さんは、間違いなく僕が一番好きな作家だった。僕が所持している本の中ではダントツの冊数を誇っている。
そんな僕が最初に吉村さんの著作を読んだのは中学生の時だった、叔父から借りた(いまだに返していない)「大本営が震えた日」がそれだった。
これは昭和16年の真珠湾攻撃直前に日本軍(大本営)が行った隠密行動の数々を描いた作品で、「上海号墜落事件」を核として描いている。
この事件は、日本が真珠湾の奇襲攻撃をする直前、開戦の指令書を積んだ旅客機「上海号」が敵国中国の領土内に墜落した、というもの。
これが中国の手にわたったら極秘裏に進めていた全ての計画が水の泡になってしまう。大本営側が必死に「上海号」を捜索し、指令書の確保につとめようとする。僕はそのスリリングな展開に、一気に引き込まれていった。
それまで当時の中学生らしく司馬遼太郎にハマっていた僕は、この本をきっかけに「吉村ワールド」にはまりこんでいったのだ。
よく言われる言葉に「吉村作品は歴史小説ではなく記録小説だ」というのがある。僕にはこういう文学用語的な言葉の機微がよくわからないので、何とも言えないけど、吉村さんの文章の特長は冷静に淡々と事実関係を追う筆致にあったと思う。余計な感情移入や、クライマックスにありがちなオーバーな表現を排除した吉村さんの文章から、逆に真実だけが持つリアリティがひしひしと伝わってきた。
吉村さんは時には純粋な小説も書かれたが、ここでも淡々と自分の創造した世界を描いてゆくようなところがあったし、またオーバー気味のクライマックスなど作らずにサラっと終わらせるのが上手い人だと感じた。
今よく考えてみると、架空の会話の中に歴史的事実を織りこむのが「歴史小説」だとしたら、歴史的事実の積み重ねの中に架空の会話を織りこんでゆくという吉村さんの手法は、たしかに「歴史小説ではなく記録小説」と呼べるものなのかもしれない。
そんな僕は、たった一度だけ、吉村さんを拝見したことがある。
1988年の夏だったと思うが、日本近代文学館の『夏の文学教室』の招待券が手に入ったため、一週間ほど銀座のなんとかホールへ通った時のことだ。
これは有名な作家や文学研究家が講師として、近代文学の主要な作家について講演を行うというものだった。
ドナルド・キーンさんが夏目漱石を語り、
村松定孝さんが泉鏡花について語り、
吉村さんは森鴎外について語った。
この時の講演はこっそりテープに録音していたので、今でも家のどこかを探したら出てくるかもしれない。
内容は鴎外のノンフィクション作家としての側面について語ったものだった。
吉村さんは鴎外の「護持院原の敵討」を引き合いにしていた。この中の、
「宇平がこの場に居合せませんのが」と、りよは只一言云った。
という一文を激賞していた。「この一文があることで、江戸時代のいち敵討ち事件が、鮮やかなリアリティを持ってよみがえってくるんです」というようなことをおっしゃっていた。
それまで僕は、吉村さんという人を大作家風の怖そうな人だと勝手に思っていたのだが、実際は大変紳士的で穏やかな人、そして誠実そうな方だったのに驚いた。そして、真実を追究するための執念、極力史実を再現させてゆこうとする真摯な姿勢をヒシヒシと感じることができた。
それから数年たった時、僕はまず食品メーカーのサラリーマンになったわけだけど、入社そうそう部長(後にスミコの上司だった人)がギックリ腰で入院するというハプニングがあった。病院へお見舞いに行った僕は、途中の古本屋で「ちびまる子ちゃん」と吉村昭の「戦艦武蔵」を買っていった。
前者には「今のうちに”ちびまる子ちゃんアイス”をお考え下さい」という生意気な僕の提案があったし、後者は退屈しのぎにいいかな、という入院経験者ならではの(大学生の頃、鼻の手術で入院したことがある)知恵だった。
「みんな、果物ばかり持ってきやがってよ~。本が読みたかったんだよ、俺は」
という部長。元来もの凄い読書家だったから「武蔵」ぐらいは読んでいたはずだが、とても喜んでくれた。
その後、あの人は本社に本気で「ちびまる子ちゃんアイス」を提案して下さったし(結局エスキモーに取られてしまったが)、吉村昭の新刊が出ると「おい、お前買ったか?何、買っていないのか。ばーか、本っていうのはなぁ、出た時に読むんだよ」なんてことを言われ続けた....あのですね、理屈はわかるけど、僕は新書は高いので文庫になってから買うんですよ(ーー;)
そして15年がたち、僕は「下山事件資料館」なんていうノンフィクション系サイトを運営している.....
吉村さん、本当に色々な「知」を教えてくれてありがとうございました。吉村さんがひとつのテーマにしていた「癌」で亡くなられたことに、言葉もありません。
心からご冥福をお祈り致します。
僕の好きな10冊
「冷い夏、熱い夏」
「総員起シ」
「大本営が震えた日」
「破獄」
「冬の鷹」
「戦艦武蔵」
「高熱隧道」
「熊嵐」
「漂流」
「関東大震災」
うーん、見事に偏っているなぁ。
ディスカッション
コメント一覧
末尾の書名リスト、ああ懐かしい名前が並んでいるなあと思ってしまいました。
最近はご無沙汰でしたが、中学か高校くらいの頃吉村作品を立て続けに読んでいたような気がします。きっかけはNHKのドラマか何かを見て原作を探して、だったかなあ・・・
「ポーツマスの旗」「陸奥爆沈」「高熱隧道」「漂流」「関東大震災」「三陸海岸大津波」「水の葬列」なんてあたりを読んだような・・・微妙に重なってますね(笑)
「歴史小説ではなく記録小説」、まさにその通りだなあと作品の数々を思い返してみて感じましたわ。
>羊子さん
おーおー、読んだ人がこんな近くにいたいた。
こんな言ったら失礼かもしれないけど、吉村昭なんて男が読むものとばかり思っていたよ。だってある意味リアルな怖さがあるからね。でも「事実は小説より奇なり」を実感したのではないでしょか。
お盆には黒部渓谷目指して宇奈月ルートからトロッコに乗るぞよ。高熱隧道の手前まで行ってくるづら。
小説も勿論好きですが、ドキュメンタリーやノンフィクション系も結構好きなので吉村作品は性に合っていたのかもしれません(笑)事実の持つ重み(つまりリアルな怖さ、ですよね)に触れるのが好きなのかも。
黒部渓谷、私は10数年前に岩手のMちゃんと一緒に逆の大町側から宇奈月へ抜ける旅をしましたよ~。トロッコは涼しさ&迫力満点です!作品に描かれた現地に立つと、また感慨もひとしおよね。夏の旅を楽しんできてくださりませ。
>羊子さん
おおMちゃん、どうされていることやら...
「高熱隧道」の信じられないブッ飛び方に、昔から行きたいと思っていたのだけど、ようやく行けると思った矢先にこれだ。がっかりだよ。
気を取り直して夏らしからぬ涼しさを求めて行ってきます。
昔、色々読みましたが印象深いのは 破獄です。
3度も脱獄した脱獄王のお話で、ぞくぞくしながら
読み終えたのを覚えてます。
確か冷い夏、熱い夏も読んだけど忘れちゃいました。
どんな話だったっけ?
>バンコクいちろうどの
こうやって見ていると、吉村昭って特定の世代でのブームだったのかな?新聞見ていても、WEBのニュースを見ていても、扱いが思っていたより小さくて奇異な感じがしたよ。
「冷たい夏」は弟さんが癌に亡くなるまでの話だね。