湯檜曽ループ線の魅力を熱く語っても多分通じないのだろう
4月1日、桜の北限は渋川あたりまでだった。
さらに関越道を北上すると、暦は1か月ほど戻ってしまったようだ。
水上あたりでは山々はいまだ枯れ木と残雪に覆われていた。
「この光景。凄くない?」とカミさんに言う。
「何が?」
「上の線路と下のトンネルは繋がってるんだよ」
「ふうん」
無関心にそう言われるであろう事は予想していた。
ここは群馬県みなかみ町にある湯檜曽(ゆびそ)ループ線。
上の線路を通った列車は2つのトンネルでくるりと回って、下のトンネルから出てくる。これが何だか凄いんだ。(※1)
いやまてよ、これを「凄い」と思う感性が変わっているのかな。
でも自分は子供の頃から、これが「凄い」と思って憧れてきた。
今でもそうだ。「土木遺産」「峠」「トンネル」というキーワードには妙に惹かれてしまう自分がいる(「鉄」ではない)。
ここは10年ぶりだけど、そういうものの宝庫。たとえばいま走っているR291はこの先で「点線国道」となってしまう。
大正11年、谷川岳(茂倉岳)を穿つ清水トンネルが建設された時、最大の課題は「いかに標高差を緩和するか」だった。
山の標高の高い所へトンネルを掘れば、それだけトンネルの距離は短くてすみ、建設コストを抑えることができる。
また当時の技術では掘削できるトンネルの距離は限られていた。
一方、標高差のある地点を重量級の列車で登り降りする場合、直線的に急勾配を設けてそこを走らせるのは難しい。
だからループ線を使って標高差を緩和させたわけだ。
そうした工夫があって、清水トンネルは昭和6年9月1日に開通した。
谷川岳山系を貫く合計七つのトンネルの中には湯檜曽ループ(群馬側)と松川ループ(新潟側)もある。
昭和8年から使用された「尋常科用 小学国語読本 巻八」は、小学校4年生後記の教材として使われていたものだが、巻末の第二十六話は「清水トンネル(※2)」だ。
三月の梅の季節に、関東平野から清水トンネルを越えて雪景色の新潟へと至るこの列車紀行文は、車窓からの風景を記録した名文だと思う。
町を過ぎ、村を過ぎ、汽車は何時の間にか利根川に沿うて北に進んで居た。平野がつきて、山が次第にせまつて来た。右も山、左もやがて山を見上げるやうになると、利根川も眼下に細くなって、右に左に屈曲する。」
実際に高崎、前橋と過ぎ、渋川から沼田あたりへ進むと、いまでも同じ風景が楽しむことができる。
峠を越えてゆくワクワク感というのは、自分もいつも感じることなんだけど、この「山が迫ってくる」ところから始まる。
谷間に沿うて所々に山村があり、温泉場がある。残雪の山の頂から中腹にかけてまだらに見える。なんだか春が逆戻りしてゆくやうな氣がする
おっしゃる通りだ。
列車は水上駅に停車すると、ここで蒸気機関車を切り離し、ここからトンネルを越えるまで電気機関車がけん引したようだ。
山を分け、川を傳ひながら上ると、残雪がだんだん深くなる。トンネルに入った。
此のトンネルを過ぎ、第二のトンネルを過ぎた所で、真下をみた。するとさつき上って来た線路がずつと下の方にみえて、今通る線路と十文字に交つている。いはゆるループ線である
湯檜曽駅を出た列車はループ線で標高差60mほどを登り上がる。当時はこの登り上がった所に旧湯檜曽駅があった事を、帰宅してから知った。その後、2つのトンネルでじわじわと高度を20mほど稼いだ列車は、土合駅を通り過ぎた後、9,702mの清水トンネルへと突入する。
第五のトンネルこそ、長さ九千七百二米の清水トンネルである。中にはいれば何の不思議もない。ただ暗やみの中をごうごうと走るばかりだ。しかし今刻々と群馬縣が尽き新潟縣が近寄りつつある。頭上に高さ二千米の茂倉岳が天にそびえて居るはずだ。汽車はやや速度が加つた。下りになつたのである。もう新潟縣にはいったのであらう。なほやみのトンネルは續いて居ている。時計を見つめていると、八分、九分、十分、いたづらに時間が長いやうな氣がする。やつと前方から、かすかな光がさし込むと見る間にトンネルはつきた。約十二分である。急に世界が明かるくなった。外には、白雪にうづもれた景色が開けた。川一筋、北へ流れる外は、山も野も真白である。
時計を現代に戻す。
僕とカミさんは車を土合駅へと進めた。
「ちょっと面白いものを見せてあげるよ。行こう」
「いいよ、鉄道は興味ないもん」
「まあいいからいいから」
「どこまで行くのよ」
「まあいいからいいから」
カミさんはこの先にあるものよりは、連絡通路の外に見える残雪の景色に興味があるようで、色々と写真を撮影していた。
ようやくそこへたどり着いた。
「どうだ!凄いだろう」
「何これ、降りるの?」
「いや、10年前に上り下りしたからもういいや」
そう、10年前にここに来た時は、階段の下にある下り線ホームまで上り下りしたのは僕と長女だけ。
他の家族は車の中でいびきをかいていた。
僕はここでようやく先ほどのループ線がどうしてそうなっているのかを説明した。
階段の壁面に指で図を描きながら。
この階段の下に新たに建設された新清水トンネルは、土木技術の進歩によって長距離トンネル(13,500m)となり、ループ線を使うこともなく、標高差80mの地下に長く横たわっていること。そのせいでこんな凄い階段が作られた事を説明した。
ようやく....何となくではあるが「凄い」という事を納得してくれたようだ。
たしか小学校4年生の時だった。
父が僕と妹を連れて日帰り列車の旅に連れていってくれたことがある。
上野から上越線で小出まで出て、只見線で会津若松へと出て、再び戻ってくるというずいぶんダイナミックな日帰り旅だった。
この時、父に「清水トンネルを通るよ」と言われたのもあって、ついていったのを覚えている。なぜか自分はすでに「清水トンネル」を知っていて、そこを通るというのが純粋に嬉しかったのだ。
そして、トンネルに入っても、何の変哲もないコンクリートの壁と、流れてゆく蛍光灯の光を凝視していたのを覚えている。
あれから42年、ようやく今回の旅で父に騙された事に気づいた。
自分が乗ったのは下り電車だから、通ったのは「新清水トンネル」。このトンネルは下り線専用なんだと。
本当の「清水トンネル」は上り線専用になっており、新潟側から乗るしかないということを。
当時は「いつループ線越えたんだろう」ぐらいに思っていたが、そもそもループ線なんか通ってなかったということも。
※1 線路は単線。現在は上り線だけがこのトンネルを利用しているので、矢印の方向のみ列車は進行している。
※2 鉄道作家の宮脇俊三は「清水トンネル」のとりこになったのはこの教科書の影響なんだそうだ。。
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